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この時代から武士が朝廷や公家を凌駕し、700年に渡り武家が権力を掌握します。
平安時代後期、院政の開始によって天皇が政治の中心へと返り咲いたかに見えましたが、その安定は長くは続きませんでした。地方で力を蓄えていた武士たちが、やがて中央政治の舞台へと本格的に進出し、日本の支配構造を根本から変革することになります。この章では、武士が公家社会を凌駕し、新たな武家政権を樹立していく過程、そして公武二元支配という独特の政治体制の始まりから、室町時代にかけての朝廷と公家の変遷について深掘りしていきます。
第四章:鎌倉・室町時代:武家政権下の朝廷と公家
源平合戦と鎌倉幕府の成立:二重権力の時代
保元・平治の乱を経て、武士が朝廷内の権力争いに深く介入し、その軍事力が政治の趨勢を左右する時代が到来しました。平清盛が武士として初めて太政大臣に就任し、一族で朝廷の要職を独占する平氏政権を築きましたが、その急進的な支配は旧来の公家や寺社勢力、さらには地方の武士からの反発を招きました。

平氏は、天皇の外戚を狙い、一門の公家化を図ることで権力を得ようとして失敗しました。
1180年(治承4年)、以仁王の令旨をきっかけに各地で反平氏の兵が挙げられ、源頼朝も伊豆で挙兵します。ここから約5年間にわたる源平合戦が始まります。源頼朝は、弟の源義経らの活躍により、各地で平氏を打ち破り、1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
平氏を打倒した源頼朝は、京都の朝廷とは距離を置き、自らの本拠地である鎌倉に関東武士を統率するための独自の政権を築きました。そして1192年(建久3年)、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家政権のトップとなります。これが鎌倉幕府の成立です。

頼朝は、平氏と言う反面教師があったことで、武士のための政治を目指すことができたとも言えます。
鎌倉幕府の成立により、日本には公武二元支配という新たな政治体制が確立されました。京都には天皇を中心とする朝廷(公家政権)が存在し、儀礼や文化的権威を保持しました。一方、鎌倉には征夷大将軍を中心とする鎌倉幕府(武家政権)が存在し、軍事・警察権や地方支配の実権を握りました。この二つの権力が並立し、それぞれが異なる領域を統治するという体制は、以降、明治維新に至るまでの約700年間にわたる日本の政治構造の基本となります。朝廷は、引き続き法的な正統性を付与する役割を担い、官位や土地の承認を行う一方、幕府は実質的な支配を行うという、独特の関係性が築かれたのです。
複雑な土地所有と武士の渇望:なぜ二重権力が生まれたのか
この公武二元支配が生まれた背景には、当時の複雑な土地所有形態、特に荘園制度が深く関わっていました。律令制下の公地公民が崩れ、各地に形成された荘園は、重層的な権利関係によって成り立っていました。
荘園には、名目上の所有者である「本家」や「領家」(多くは公家や寺社)、そして実質的に管理を行う「預所」や「下司」といった様々な階層が存在しました。武士たちは、もともとこうした荘園の管理者や警護役、あるいは開墾者として成長してきました。彼らは、自らが労力を投じて開発した土地や、武力によって獲得した土地に対する排他的な支配権、すなわち土地の私有権を強く渇望していました。

土地は武士がいかに実効支配していたとしても、朝廷の公認がなければ、武士は正式な所有者になれませんでした。
しかし、当時の法制度では、土地の所有権は原則として朝廷(天皇)に由来するものとされており、武士が自力で獲得した土地であっても、朝廷からの公認がなければその権利は不安定なものでした。そこで、源頼朝は、朝廷から守護と地頭を設置する権限を得ることで、この武士たちの土地に対する渇望に応えようとしました。
- 守護: 国ごとに設置され、大番催促(軍役の催促)、謀反人の追捕、殺害人の追捕という「大犯三カ条」を職務とし、軍事・警察権を行使しました。これにより、地方の武士を幕府の統制下に置くことが可能となりました。
- 地頭: 荘園や公領ごとに設置され、土地の管理や年貢の徴収にあたりました。彼らは、荘園の年貢の一部を自らの取り分とする権利(地頭給)を得ることで、土地の収益から直接的な利益を得ることができました。

守護・地頭の制度が権力の基盤であった「荘園」を侵食し、朝廷や公家の力をそいでいきました。
この守護・地頭制度は、朝廷の法的権威を借りつつ、武士が実質的な土地支配権を確立するための巧妙な仕組みでした。公家や寺社は荘園の本家・領家として名目上の所有権を保ちましたが、実務面では地頭による支配が強まり、年貢徴収の権利も脅かされることになります。結果として、朝廷と武家という二つの異なる権力機構が、同じ土地の上に並立する二重権力体制が必然的に生まれたのです。これは、武士の「土地への欲求」と朝廷の「権威による支配」が妥協点を見出した、日本史独特の統治形態でした。
幕府の成立が公家社会に与えた影響:政治的・経済的な敗北
鎌倉幕府の成立は、公家社会に決定的な変化をもたらしました。
- 政治的実権の喪失: 摂関家をはじめとする公家たちは、依然として朝廷に存在し、儀礼や伝統的な行事を執り行いましたが、政治的実権は著しく低下しました。重要政務の決定権は幕府に移り、公家は幕府の意向を無視して政治を行うことは困難となります。
- 経済的基盤の縮小: 公家の経済基盤であった荘園は、地頭の設置によってその支配権が徐々に侵食されていきました。地頭は年貢の一部を横領したり、荘園内の土地を私的に開発したりするようになり、公家たちの収入は減少の一途をたどります。
- 権威の保持と利用: 一方で、朝廷が持つ伝統的な権威は依然として無視できないものでした。鎌倉幕府も天皇の存在を完全に否定することなく、天皇の綸旨や官位授与の権限を借りて、自らの支配の正統性を補強しようとしました。公家たちは、かつてのような実権は失ったものの、この「権威」の担い手として、武家社会に一定の存在意義を見出すことになります。
- 文化の担い手としての側面: 政治から遠ざかった公家たちは、和歌、有職故実、書道、学問といった伝統文化の継承と発展に一層力を注ぐようになります。彼らは、武士とは異なる雅な文化の担い手として、その存在感を示し続けました。
このように、鎌倉幕府の成立によって、公家社会はその政治的・経済的基盤を大きく揺るがされましたが、伝統的な権威と文化的な役割を保持することで、辛うじてその存続を維持することになりました。
承久の乱:朝廷の失墜と武家優位の確立
鎌倉幕府が確立されていく中で、朝廷(特に上皇)は失われた政治的実権を取り戻そうと試みます。その最大の試みが、1221年(承久3年)に勃発した承久の乱です。

承久の乱は、天皇・朝廷の権力が武士に移ったという、日本史上における最大の事件の1つです。
後鳥羽上皇は、武家政権の成立によって低下した皇室の権威回復を目指していました。源実朝の死後、源氏の直系が絶え、執権である北条氏が実質的な権力者として力を強める中で、上皇は武士間の亀裂を利用できると考えました。彼は、北条義時追討の院宣を全国に発し、各地の武士に幕府打倒を命じます。これに対し、当時の執権であった北条義時と頼朝の妻である北条政子は、動揺する東国武士たちを「御恩と奉公」を強調して結束させ、圧倒的な兵力で京都へ進軍しました。
戦いはわずか一ヶ月足らずで幕府軍の圧勝に終わりました。乱の結果は、朝廷の権威に決定的な打撃を与えるものとなりました。
- 後鳥羽上皇らの配流: 後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へ、土御門上皇は土佐へそれぞれ配流され、これは皇室史上でも異例の事態でした。この処置は、天皇の絶対的な権威が武力によって覆されることを天下に知らしめました。
- 膨大な荘園の没収: 幕府は、乱に参加した後鳥羽上皇方についた貴族や寺社の荘園を没収し、これを「新補地頭」として御家人たちに与えました。これにより、幕府の経済基盤は強化され、全国の武士に対する支配力を一層強固なものとしました。
- 六波羅探題の設置: 幕府は、京都に六波羅探題を設置しました。これは、京都の警備、朝廷の監視、西国の武士の統率、訴訟などを担当する幕府の出先機関であり、これにより幕府は朝廷の動向を直接的に監視し、その行動を制限できるようになりました。
承久の乱は、公武関係において武家優位の原則を確立した画期的な事件でした。これにより、朝廷は名目的な権威は保つものの、実質的な政治権力は完全に幕府の手に移り、公家社会は幕府の統制下に置かれることになります。
天皇家の一時的対立:「大覚寺統」と「持明院統」の分立
承久の乱によって皇室の権威が失墜した一方で、鎌倉時代後期になると、天皇家の内部で深刻な対立が生じます。これが、大覚寺統と持明院統という二つの皇統の分立です。
この対立は、後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇と亀山天皇の系統に端を発します。後深草天皇の子孫が持明院統となり、亀山天皇の子孫が大覚寺統となりました。両統は、皇位継承を巡って激しく争い、幕府に仲介を求めるようになります。

内部抗争を起こすと、その組織は弱くなるというのは、どの時代でも共通する真理です。
鎌倉幕府は、皇室の権威を自らの支配の正統性として利用するために、この対立をあえて完全に解消させず、両統迭立という原則を定めました。これは、大覚寺統と持明院統が交互に皇位に就くというもので、これによって幕府は皇位継承に介入する口実を得て、朝廷に対する支配力を強化しました。しかし、この両統迭立は、皇統内の不満をくすぶらせ続け、後の南北朝の動乱の遠因となることになります。
南北朝の動乱:一瞬だけ見えた天皇親政復活への夢
両統迭立に不満を抱いていた大覚寺統の後醍醐天皇は、鎌倉幕府の支配を打破し、天皇親政による政治の復活を目指します。彼は、武士や悪党(荘園支配に反抗する勢力)の支持を得て、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を滅亡させました。これにより、約150年続いた鎌倉幕府の武家政権は終焉を迎え、後醍醐天皇による建武の新政が開始されます。
建武の新政は、天皇を中心とした理想的な政治を目指しました。しかしその実態は、旧来の公家や新興の武士たちの利害調整に失敗し、貴族中心の復古的な政策が目立ったため、武士たちの不満を募らせました。特に、土地の恩賞を巡る混乱や、後醍醐天皇の側近政治は、武士たちの離反を招きます。
この不満を背景に、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、1336年(建武3年)、京都に新たな天皇(光明天皇)を擁立しました。これに対し、後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、ここに南北朝時代が始まります。北朝(室町幕府が擁立)と南朝(後醍醐天皇方)は、約60年にわたって激しい内乱を繰り広げ、日本全土を戦乱の渦に巻き込みました。
南北朝の動乱は、公家社会に甚大な苦難をもたらしました。
- 経済的困窮: 戦乱によって荘園は荒廃し、公家たちの経済基盤は完全に崩壊しました。彼らは収入源を失い、生活は困窮を極めました。
- 離散と流浪: 戦火を避けて都を離れ、地方に流浪する公家も多く現れました。中には武士の庇護を受ける者もおり、その生活は極めて不安定なものでした。
- 文化的な側面: しかし、この苦難の中で、公家たちは学問や文化の継承に努めました。古典研究や有職故実の伝承は、彼らが唯一誇れる伝統となり、後に室町文化へと繋がっていきます。また、『太平記』のような軍記物語が成立し、この時代の激動を記録しました。
室町幕府と公家:さらなる困窮と応仁の乱
南北朝の動乱を統一した室町幕府は、鎌倉幕府とは異なる形で朝廷との関係を築きました。室町幕府は、京都に本拠地を置く「花の御所」を設け、朝廷との距離が近かったため、その影響力は鎌倉幕府よりも直接的でした。
- 朝廷の利用と制約: 室町将軍は、天皇の権威を自らの支配の正統性として利用しました。天皇に官位を授与させたり、元号を定めさせたりすることで、幕府の権威を高めました。しかし、同時に朝廷の政治的介入は厳しく制限され、天皇や公家は依然として実権を持たない存在でした。
- 経済的困窮の継続: 公家の経済的困窮は室町時代を通じて深刻化しました。荘園の収益は回復せず、公家の中には地方の武士に仕えたり、自ら土地を開墾したりする者も現れました。
- 室町文化における公家の役割: しかし、室町時代は禅宗の影響を受け、北山文化や東山文化といった新たな文化が花開いた時代でもありました。公家たちは、連歌や茶道、花道といった文化活動において、武士と共に、あるいはその指導者として重要な役割を果たしました。彼らは、有職故実や古典文学の知識を武士に伝えるなど、文化的な面での存在意義を保ち続けました。
室町幕府の支配も、将軍の代替わりや管領の権力争いによって不安定なものとなっていきました。そして15世紀後半、将軍家の相続問題に端を発した細川氏と山名氏の対立をきっかけに、京都を舞台に応仁の乱(1467~1477年)が勃発します。この大乱は、京都を焼き尽くし、公家社会に決定的な打撃を与えました。多くの公家が都を離れて地方へ避難し、その生活は極限まで困窮しました。これにより、公家社会の秩序は崩壊し、日本は本格的な下克上の時代、すなわち戦国時代へと突入していくことになります。
第四章では、武士が政治の主導権を握り、公武二元支配が確立される過程、そして公家社会がその中でいかに苦難を強いられ、変容していったかを描きました。しかし、彼らは権威と文化の担い手として、その存在意義を完全に失うことはありませんでした。
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