朝廷と公家社会|その栄枯盛衰の歴史(第3回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
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院政が始まり、それにともない藤原氏の力が弱まっていきます。

平安時代中期から後期にかけて、藤原氏による摂関政治は絶頂を極めました。しかし、その華やかさの陰で、律令体制の崩壊は進み、地方では新たな勢力が力を蓄えつつありました。そして11世紀後半、天皇自らが実権を取り戻そうとする院政が開始され、朝廷の権力構造は大きく変貌します。この変化は、公家社会のあり方にも大きな影響を与え、やがて武士の時代への扉を開くことになります。

第三章:院政と武士の台頭:変貌する朝廷と公家

摂関政治の揺らぎと院政の開始

藤原道長・頼通の時代、摂関政治はまさに盤石でした。しかし、その安定は永続するものではありませんでした。11世紀半ば以降、頼通の子孫が早逝したり、女性が生まれなかったりしたことで、外戚関係を維持することが困難になります。また、有能な人材を欠くようになり、政務の停滞が指摘されるようにもなりました。

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藤原氏の外戚になるという戦略は、藤原氏に女性が生まれないと成立しないという、根本的な不安定さを持っていました。

こうした状況下で、天皇自らが政治の主導権を取り戻そうとする動きが活発化します。その先鞭をつけたのが後三条天皇です。彼は藤原氏を外戚としない天皇であり、在位はわずか4年でしたが、律令国家再建を目指して画期的な施策を断行しました。

特に注目すべきは、1069年(延久元年)に発布された延久の荘園整理令です。当時、荘園は貴族や寺社の経済基盤となっていましたが、その多くは不法に拡大されたり、国司の徴税を逃れるための手段となったりしており、国家財政を圧迫し、律令制を形骸化させていました。この整理令は、従来の荘園整理令とは一線を画す厳格なものでした。

延久の荘園整理令のポイントと摂関家への打撃

  1. 記録荘園券契所の設置: 従来の荘園整理令が機能しなかった反省から、この整理令では、荘園に関する一切の証文を審査する新たな機関として「記録荘園券契所」を設置しました。これは、既存の太政官符や民部省符による公認荘園を除き、全ての荘園に対して、その正当性を証明する文書の提出を義務付けるものでした。
  2. 基準の厳格化: 基準を満たさない荘園は、その領主が誰であろうと没収するという厳格な姿勢が貫かれました。特に「新規の荘園の停止」と「過去20年以内に成立した荘園の再審査」を徹底しました。
  3. 摂関家領への適用: 後三条天皇が藤原氏を外戚としない天皇であったため、彼は摂関家に対しても容赦なく整理令を適用しました。時の関白であった藤原頼通やその弟の教通の荘園も例外ではなく、記録荘園券契所の審査対象となり、その結果、多くの摂関家領荘園が整理(没収)されました。

これにより、摂関家は代々築き上げてきた経済的基盤に大きな打撃を受け、その財力が一時的に大きく弱まることになりました。延久の荘園整理令は、摂関政治の経済的基盤を揺るがし、天皇が摂関家の支配を相対化しうる存在であることを示した画期的な出来事だったのです。

そして、後三条天皇の意思を受け継ぎ、本格的に院政を開始したのがその子、白河天皇です。1086年(応徳3年)、幼少の堀河天皇に譲位して上皇となった白河上皇は、院庁を設置し、そこから政務を行いました。院庁は、上皇の私的機関でありながら、太政官を凌ぐ実質的な政治機関として機能しました。院庁には、上皇の側近である院近臣が登用され、彼らは家柄よりも上皇への忠誠心や実務能力を重視されました。

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院庁には、新興貴族や中下級貴族、さらには武士の中から登用される者も現れました。

白河上皇は、その強いリーダーシップで、摂関家の影響力を排除し、政治・経済の実権を掌握しました。彼らは、膨大な院領荘園を獲得することで経済基盤を確立し、さらに比叡山延暦寺などの強力な寺社勢力に対しては、武力も背景に強権を発動することもありました。院政は、摂関政治とは異なる形で天皇が政治を主導する新たな体制を築き、これにより天皇は再び政治の中心に返り咲いたかに見えました。

地方の動乱と武士の台頭

中央で院政が開始される一方で、地方では大きな変化が起きていました。律令制の解体が進み、地方行政の統制が緩む中で、治安維持や荘園の管理を担う存在として武士が台頭してきたのです。

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当時の法律である律令には院政や院庁が載っていることはなく、院政は律令体制を崩壊させていきます。

武士は、地方の有力豪族が、自衛や開発、荘園の管理のために武装した集団を起源とします。彼らは、地方の役所で実務を担った下級官人として行政に携わる一方で、私的な武装集団を形成し、次第に地域社会の支配者となっていきました。彼らの中には、源氏や平氏といった天皇から分かれた賜姓皇族の末裔も多く、彼らが地方に下って武士団を形成し、その中で棟梁として勢力を拡大していきました。

特に、桓武平氏平清盛を輩出した伊勢平氏と、清和源氏源頼義・義家を輩出した河内源氏は、この時代の二大武家棟梁として、後の時代の主役となっていきます。彼らは、朝廷の支配が及ばない地方で、武力をもって紛争を解決し、次第にその存在感を増していきました。

この時代の代表的な武力衝突としては、前九年の役(1051~1062年)や後三年の役(1083~1087年)が挙げられます。これらは、東北地方の豪族間の争いに源氏が介入し、その武力をもって解決へと導いた戦いです。これらの戦いを通じて、源氏の武力と統率力は全国に知れ渡り、多くの武士が源氏のもとに集うようになりました。朝廷もまた、地方の紛争解決のために武士の力を頼るようになり、武士の社会的地位は徐々に向上していったのです。

院政期の公家の変容と武士との関係

院政の開始は、公家社会にも大きな変容をもたらしました。摂関家は依然として最高の家格を保っていましたが、政治の実権は上皇と院近臣に移ったため、その影響力は相対的に低下しました。摂関家以外の公家の中には、上皇の院近臣として登用されることで、従来の家格にとらわれずに昇進する者も現れました。

しかし、院政期の政治は、上皇の個人的な資質に大きく依存する不安定さを孕んでいました。また、荘園の増加は続き、国家財政の根本的な解決には至らず、社会不安が増大していきます。地方の武士が力を増す中で、公家たちは彼らを荘園の管理者や警護役として利用する一方で、その強大な武力に脅威を感じるようにもなりました。

この時代は、公家と武士の関係が複雑に絡み合った時期でもあります。大河ドラマのシーンなどでも見ることがありますが、公家は武士を「犬」のように扱うこともありました。しかし、同時に武士の武力なくしては荘園を維持できないという現実もありました。武士もまた、公家社会への進出を望み、官位を得て自らの地位を高めようとしました。

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この時代は、公家と武士が互いに利用しあう微妙なバランスのもとで成立していました。

そして、この公家と武士の間の微妙なバランスは、やがて来るべき大規模な軍事衝突、すなわち保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)へと繋がっていきます。これらの戦いは、朝廷内部の権力争いに武士が深く介入したことで、公家社会の力関係を決定的に変化させ、武士が日本の政治の主役となる時代の到来を告げることになります。

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