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太閤検地の導入によって、土地の重層構造が解消され、皆さんがよく耳にする「●万石」と言う単位が登場します。
第五章:近世の土地制度と身分制度
前章では、中世の重層的で流動的な土地所有が、武士の台頭と戦乱の時代を経て大きく変容したことを述べました。この章では、豊臣秀吉による画期的な太閤検地と、それが確立した石高制が、日本の土地所有にどのような恒久的な影響を与えたのかを詳述します。さらに、江戸時代の幕藩体制下での厳格な土地支配と、それに伴う身分制度の確立、そして天皇家の重要な経済基盤であった長講堂領が近世においてどのような位置づけにあったのかを解き明かします。
1. 太閤検地と石高制の確立
日本の土地所有の歴史において、太閤検地は、その後の約270年間にわたる江戸時代の社会構造を決定づけた、まさに「天下分け目の検地」と称されるべき大事業でした。豊臣秀吉が全国統一事業の一環として、1582年(天正10年)頃から本格的に開始し、1598年(慶長3年)に彼が死去するまで続けられました。
太閤検地の目的は、大きく分けて二つありました。一つは、全国の土地の生産力を統一的な基準で正確に把握し、そこから得られる年貢(ねんぐ)を国家(豊臣政権)の基盤とすること。もう一つは、これまで荘園制の下で複雑に入り組んでいた土地の権利関係を整理し、一元的な支配体制を確立することです。
太閤検地以前にも、領主による土地調査は行われていましたが、その多くは農民や村の有力者による自己申告に頼る「差出検地」でした。この方法では、年貢負担を逃れるために土地の面積を過少に申告したり、開墾したばかりの土地を隠したりする「隠田」が横行し、正確な生産力や公平な年貢負担の把握が困難でした。また、地域によって測量単位や枡の大きさがバラバラであるため、統一的な基準で土地を把握することができないという根本的な問題も抱えていました。

豊臣秀吉は、その武力を背景として全国で検地を推し進めることが出来ました。
これらの問題を解決するために、太閤検地では以下の画期的な手法が導入されました。
- 徹底的な土地調査と単位の統一: 全国各地の田畑の面積を、統一された「京枡(きょうます)」や「太閤枡」を用いて測量し、一筆ごとの面積(町・反・畝・歩)を確定しました。また、土地の肥沃度に応じて「上田」「中田」「下田」「下々田」といった等級を定めました。
- 石高制の導入: 土地の生産力を米の収穫量(石高)で示す画期的な制度が導入されました。1石は約180リットル、成人男性が1年間に食べる米の量を目安として設定されており、その土地が年間でどれだけの米を生産できるかを示す指標となりました。この石高が、年貢の基準となり、また武士の知行高や軍役負担の基準にもなりました。これにより、各地の土地を統一された基準で評価することが可能となり、これまで曖昧だった土地の価値が明確になりました。
- 一地一作人の原則: 最も重要な点は、その土地を実際に耕作する農民(名請人)を土地の所有者として登録し、直接年貢を課したことです。これまでの荘園制下における重層的な権利関係を排除し、「土地は耕作者のもの」という原則を打ち出しました。これにより、中世以来の荘園公領制は完全に解体され、貴族や寺社が持っていた荘園の支配権は有名無実化しました。
- 兵農分離の徹底: 太閤検地と並行して行われたのが刀狩です。農民から武器を取り上げ、武士と農民の身分を明確に分けました。これにより、武士は土地を直接耕作するのではなく、石高に応じた知行地から年貢を得る支配者となり、農民は土地に縛り付けられ、年貢を納める生産者として固定化されました。
太閤検地によって確立された石高制は、その後の江戸時代を通じて日本の経済・社会制度の根幹となりました。大名や武士の知行高は石高で表され、そこから徴収される年貢が幕府や藩の財政を支えました。また、農民の生活は石高に基づく年貢負担に直結し、その後の農村社会のあり方を大きく規定することになります。
2. 幕藩体制下の土地支配
豊臣秀吉の死後、徳川家康が天下を統一し、江戸幕府を開くと、太閤検地によって確立された石高制を基盤とした幕藩体制が確立されます。これは、将軍が全国の土地と人民を支配し、その下に各藩が独立した領地(藩)を治めるという、中央集権と地方分権が融合した独自の統治体制でした。

徳川幕府も、太閤検地によって成立した石高制を採用し、全国支配のツールとして使い続けます。
土地支配の基本的な構図は、以下の通りです。
- 幕府領(天領): 将軍直轄領であり、全国の主要な鉱山や港湾、都市の周辺などに設定されました。ここからの年貢は直接幕府の財源となりました。
- 藩領: 各地の大名に与えられた領地で、その規模は石高で表されました。大名は藩主として領内の土地と人民を支配し、年貢を徴収して藩の財政を運営しました。大名は家臣に、石高に応じた知行地を与えましたが、これは中世の地頭のような直接的な土地支配権ではなく、あくまでその土地から上がる年貢を徴収する権利を意味しました。
- 旗本・御家人領: 将軍直属の家臣である旗本や御家人にも知行地が与えられました。彼らもまた、その土地の農民から年貢を徴収することで生活を維持しました。
幕藩体制下では、農民に対する支配がさらに厳格化されました。農民は基本的に居住地や職業を自由に選択することはできず、土地に縛り付けられました。特に、1643年(寛永20年)に出された「田畑永代売買の禁」は、その象徴的な政策です。この法令により、農地の売買が永久に禁止され、農民が土地を手放すことを極力制限しました。これは、農民を土地に固定することで年貢収入の安定を図るとともに、農民の貧富の差が拡大し、土地が特定の人々に集中することを防ぐ狙いもありました。
そして、村全体が年貢の徴収責任を負う村請制が導入されました。村の代表者である名主や庄屋が、村全体の石高に応じた年貢をまとめ、藩や幕府に納める義務を負いました。これにより、藩や幕府は個々の農民と直接交渉することなく、効率的に年貢を徴収することができました。村請制は、村落内部での自治を促す一方で、村全体に連帯責任を負わせることで、年貢の取りこぼしを防ぐ役割も果たしました。
このように、近世の土地支配は、土地所有と年貢徴収の基準を石高に統一し、武士と農民の身分を固定化することで、極めて安定した社会システムを築き上げました。この体制は、260年以上にわたる平和な時代を築くことに貢献しましたが、その一方で、社会の流動性を抑制し、近代化への移行期に新たな課題を生み出すことにもなりました。
3. 長講堂領と徳川幕府の土地政策
中世以来、皇室の重要な経済基盤であった長講堂領は、近世においてもその大部分が存続しました。徳川幕府は、天皇や公家の権威を尊重しつつも、彼らの政治的影響力を制限する政策をとりましたが、その経済基盤である公家領の存続は一定程度認めました。長講堂領もその一つであり、幕府の管理下ではありましたが、京都の禁裏御料として、天皇・上皇の生活費や宮中行事の費用を賄うための重要な財源であり続けました。
しかし、その支配の実態は中世とは大きく異なりました。幕府は、公家領を含め全国の土地を太閤検地の結果に基づき石高で把握し、徹底した支配を行いました。公家領であっても、幕府の政策や法令に従う必要があり、従来の不輸・不入の特権は事実上失われました。幕府は、必要に応じて公家領に役人を派遣したり、その運営に介入したりすることもあり、皇室や公家は、土地に対する絶対的な支配権を持つ存在ではなくなっていました。

ここに至って、長らく続いた皇族や公家による土地の絶対的な支配権は消滅することになりました。
徳川幕府の土地政策は、全国の土地を徹底的に幕府の支配下に置き、その区分を明確にするものでした。
- 御料所(ごりょうしょ): 将軍直轄領。
- 旗本・御家人領: 将軍直属の家臣の知行地。
- 大名領: 各藩の領地。
- 寺社領: 寺院や神社に認められた土地。
これらの区分は厳格に守られ、土地の所有権や利用権は、幕府の統制の下にありました。特に、大名の領地移動(国替え)は、幕府の権力維持のための重要な手段であり、その際にも土地の生産力である石高が基準となりました。
このように、近世における長講堂領の存続は、天皇家の経済的権威をほのかに示すものではありましたが、その実態は幕府の強大な土地支配体制の中に組み込まれたものとなりました。これは、中世の多元的な土地所有から、近世の画一的で中央集権的な土地支配へと移行した日本の歴史を象徴する出来事と言えるでしょう。
次章では、いよいよ近代に入り、明治維新によって日本の土地制度がどのように根底から覆され、版籍奉還や地租改正といった大改革が、近代的な土地所有権と地主制度を確立していく過程を詳述します。そして、それに伴って生じた小作制度の問題にも触れていきます。
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