※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

開発した土地を子供たちに引き継ぎたいという当たり前の考えが、公地公民の理想を壊していきます。
第二章:律令国家の変容と墾田永年私財法、そして荘園の勃興
前章では、律令国家が掲げた「公地公民」の理想と、それを具現化しようとした班田収授法の限界について触れました。人口増加と食料不足、そして農民の逃散といった問題が顕在化するにつれて、律令体制は次第にそのほころびを見せ始めます。この章では、律令国家の機能が麻痺していく中で、日本の土地所有の歴史を決定的に変えることになる墾田永年私財法が制定され、いかにして荘園が勃興していったのかを深く掘り下げていきます。
1. 律令体制の弛緩と財政難
8世紀後半から9世紀にかけて、律令国家の財政は深刻な危機に直面していました。班田収授法は機能不全に陥り、新たな班田が実施されない地域が増えていきます。
口分田が不足し、逃散した農民が増加したことで、国家が徴収できる租税(租・庸・調)も激減しました。これは、国家が運営する様々な事業、例えば大規模な造営工事や災害時の救済、官僚の給与などに必要な財源が枯渇することを意味しました。
こうした財政難の中で、地方では中央からの統制が弱まり、豪族や有力な農民が、次第に自らの経済力を背景に土地支配を強化する動きを見せ始めます。彼らは未墾地を積極的に開墾したり、逃散した農民の土地を事実上支配したりすることで、私的な土地集積を進めていきました。しかし、彼らがせっかく開墾した土地も、当時の法律ではいずれ国家に収公される運命にありました。この不安定な状況が、新たな土地制度を求める強い圧力となっていきます。
2. 墾田永年私財法の制定とその意義
律令体制の危機を打開するため、朝廷は新たな政策を模索します。その結果、743年(天平15年)に制定されたのが、墾田永年私財法です。これは、その名の通り、「新たに開墾した土地は、永久に私有を認める」という画期的な法令でした。

墾田永年私財法は、「公地公民」と言う律令制度の根本理念を否定するものでした。
この法令の背景には、班田収授法の維持が困難になったこと、そして食料増産のために未墾地の開発を強力に促進する必要があったことが挙げられます。前章で触れた三世一身法では、あくまで期限付きの私有しか認められなかったため、大規模な開墾や長期的な視点での投資には繋がりにくいという問題がありました。永続的な私有を認めることで、人々の開墾意欲を最大限に引き出し、荒廃した土地を再生させ、国家の財源を確保しようとしたのです。
墾田永年私財法の制定は、日本の土地所有の歴史における決定的な転換点となりました。これは、それまでの「公地公民」という理念、つまりすべての土地は国家のものであるという原則を、事実上放棄したことを意味します。この瞬間から、日本において私有地が公的に認められ、しかもそれが永続的に保障されるという、新たな土地所有のあり方が確立されたのです。
この法律によって、特に大きな恩恵を受けたのは、豊富な資金力と労働力を持ち、大規模な開墾を行うことができた貴族や大寺社でした。彼らは、自己の荘園経営のために未墾地を大規模に開墾し、次々と広大な私有地を形成していきます。これが、後に中世の社会を特徴づけることになる荘園の勃興へと直接的に繋がっていくのです。
3. 初期荘園の成立と展開
墾田永年私財法をきっかけに形成された私有地は、やがて荘園と呼ばれるようになります。初期の荘園は、主に自力で開墾した土地(自墾地系荘園)が中心でした。しかし、荘園の所有者である貴族や寺社が求めるのは、単なる土地の所有権だけではありませんでした。彼らは、国家からの税負担を免除され、さらに国家の役人による立ち入り調査や徴税を拒否する権利、すなわち「不輸の権(ふゆのけん)」と「不入の権(ふにゅうのけん)」を獲得しようとします。
不輸の権とは、荘園内の土地から得られる収益(年貢など)が、国家への租税を免除される権利のことです。これを獲得するために、荘園領主は、その荘園を中央の有力な貴族や大寺社、あるいは天皇・上皇といった権門勢家(けんもんせいけ)に寄進するという方法を採りました。これが「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」と呼ばれる荘園の最も主要な形態となっていきます。

どの時代であっても、税金をなるべく減らしたいというのは、人間の願望ですね。
土地を寄進された権門勢家は、その権威を背景に朝廷から不輸の特権を獲得し、寄進者(元の開発領主など)は、引き続き荘園の実質的な管理を任されることで、国家からの租税を免れ、経済的利益を確保することができました。寄進された土地は、形式的には権門勢家のものになりますが、実質的には元の開発者の支配が続きました。
さらに、荘園の特権として重要だったのが「不入の権」です。これは、国家の役人(国司など)が荘園内に立ち入って徴税したり、犯罪者を検挙したりすることを拒否できる権利でした。この権利の獲得によって、荘園は国家の統治機構から独立した、一種の「治外法権」的な領域となっていきます。これにより、荘園領主は荘園内の土地と人民を完全に掌握し、独自の支配体制を築くことが可能になりました。

為政者である権門勢家が、自ら脱税と治外法権を進めるというカオスが始まりました。
こうして、墾田永年私財法を契機に始まった荘園は、単なる私有地という枠を超え、国家の税制と支配機構から分離・独立した、重層的な土地所有関係を伴う独自の社会経済単位へと発展していきました。律令国家が公地公民の理念の下で目指した中央集権体制は、この荘園の拡大によって徐々に侵食され、中世の荘園制社会へと移行していくことになるのです。
次章では、荘園制が確立され、その内部で本所や領家といった重層的な権利関係がどのように形成されていったのか、そして地方で力をつけた開発領主や武士が、荘園の管理や土地支配に深く関わっていく様子を詳しく見ていきます。
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