瀬戸内海の「海賊」たち:水軍と交易の歴史(第3回)

Uncategorized

※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、ご意見や誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
案内者

村上水軍は、西国の雄、毛利家を結びつきを強くすることで存在感を強めます

室町幕府の権威が失墜し、全国各地で戦国大名が覇権を争った戦国時代は、瀬戸内海の海上勢力にとっても激動の時代でした。この時期、彼らは単なる地域勢力ではなく、天下取りを目指す大名たちの戦略において、その存在が勝敗を分けるほどの重要な役割を担うようになります。特に、毛利元就と結びついた村上水軍は、その最盛期を迎え、日本史上屈指の海上戦力を誇ることになります。

3. 戦国時代:戦国大名と水軍の盛衰~天下統一の波の中で

3.1 毛利氏の台頭と村上水軍の黄金期:中国地方の覇者と海上支配の確立

中国地方の小国に過ぎなかった毛利氏が、その勢力を飛躍的に拡大できた背景には、彼らが瀬戸内海の海上勢力、特に村上水軍と強固な同盟関係を築いたことが挙げられます。毛利元就は、「謀神」と称されるほどの知略家でしたが、その戦略の眼目は、陸軍力だけでなく水軍の重要性を見抜いていた点にありました。

毛利氏と村上水軍の連携が最も劇的な形で結実したのが、天文24年(1555年)の厳島の戦いです。この戦いは、毛利元就が、中国地方の覇権を争うライバルである陶晴賢大軍を破った、日本三大奇襲戦の一つに数えられる合戦です。陶晴賢は、圧倒的な兵力で安芸国の厳島に上陸しましたが、元就は敢えて決戦の場を海上の離島に選びました。

元就の勝利の鍵は、まさに村上水軍の働きにありました。村上水軍は、陶軍の背後からの奇襲、補給路の遮断、そして海上からの砲撃など、その卓越した海上戦術を駆使し、陶軍を混乱に陥れました。特に、能島村上氏を中心とする水軍衆は、潮流を味方につけ、夜陰に乗じて陶軍の船を焼き討ちにするなど、海上における絶対的な優位性を発揮しました。この戦いで、村上水軍は毛利氏の勝利に決定的な貢献を果たし、不可欠な存在となっていきます。特に、小早川隆景は自ら水軍を率い、村上水軍との連携を密にしました。

村上水軍は、この時期にその水軍技術と船団編成の極致に達しました。彼らは、戦闘用の大型船である「安宅船」、俊足を生かした小型船である「小早」、そして兵員輸送や補給を担う「関船」など、多種多様な船を効果的に組み合わせることで、多様な戦術を展開しました。また、「焙烙火矢」と呼ばれる火薬兵器(手榴弾のようなもの)を巧みに使用し、敵船に乗り込む前に火災を起こして混乱させるなど、当時の海上戦術における革新的な試みも行っています。

案内者
案内者

村上水軍は毛利家方として、織田信長との戦いで大きな役割を果たします。

毛利氏が中国地方をほぼ統一した後も、村上水軍はその海上戦力をもって、畿内の織田信長や四国の長宗我部元親など、周辺勢力との戦いを支えました。特に、織田信長が進める天下統一の過程で、毛利氏が援護していた本願寺顕如率いる石山本願寺との補給戦では、瀬戸内海の制海権が重要な意味を持ちました。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍(村上水軍が主軸)が織田方の九鬼水軍を破り、見事本願寺への兵糧搬入に成功しました。この戦いは、毛利水軍の圧倒的な水上戦闘能力を示すものでした。しかし、これに対し、信長は「鉄甲船」と呼ばれる、鉄板で覆われた大船を建造させ、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いで毛利水軍に壊滅的な打撃を与えます。この鉄甲船の登場は、海上戦術の新たな時代の幕開けを告げるものでした。

3.2 豊臣秀吉の天下統一と「海賊禁止令」の衝撃:海上勢力の再編と終焉への序章

天下を統一しつつあった豊臣秀吉にとって、瀬戸内海の強力な海上勢力、特に毛利氏と深く結びついた村上水軍は、その支配体制を確立する上で看過できない存在でした。秀吉は、九州征伐(1587年)を控える中で、瀬戸内海の海上輸送路の安全確保と、独自に勢力を持つ「海賊」たちの統制を急務とします。

天正16年(1588年)、秀吉は有名な「海賊禁止令」を発令します。この命令は、「国々浦々海賊停止」(諸国の海岸で海賊行為を禁止する)という内容で、海上における私的な略奪行為や通行料徴収を一切禁じ、その秩序を中央政府の管理下に置くことを意図していました。この法令の目的は、単に無法者を取り締まるだけでなく、全国統一を完成させ、秀吉が主導する交易(後の朱印船貿易など)を安全に発展させることにありました。それまで各地の海上勢力が「警固料」の名目で徴収していた通行料は、全て廃止され、海の自由な通行が保証されることになったのです。

案内者
案内者

村上水軍は、海賊禁止令によって海上での利権を失っていきます。

この「海賊禁止令」は、瀬戸内海の海上勢力、特に村上水軍にとっては大きな転換点となりました。彼らはそれまで培ってきた「海上支配」というビジネスモデルの根幹を揺るがされることになります。多くの水軍衆は、この命令によってその活動を大きく制限されるか、あるいは陸上支配の大名に組み込まれていきました。

村上三家の中でも、来島村上氏の当主であった来島通総は、毛利氏から離反して秀吉に早くから臣従していました。彼は「海賊禁止令」後も秀吉に重用され、大名に取り立てられました。これは、秀吉が単に「海賊」を排除するだけでなく、その能力を評価し、自らの支配体制に組み込むことで、近世的な海上軍事力として再編しようとしたことを示しています。通総は、小田原征伐や後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においても水軍を率いて活躍し、来島氏(後に久留島氏)は幕末まで続く大名家となりました。

一方で、能島村上氏や因島村上氏の多くは、毛利氏に最後まで忠節を尽くし、その家臣として海上活動を続けました。しかし、「海賊禁止令」によって彼らの独立性は失われ、従来の「警固」による収入源も絶たれました。彼らの多くは、毛利氏の家臣として知行を与えられ、武士として存続しましたが、その存在は「水軍」というよりも、大名家の一部としての藩の船手衆へと変質していきました。

文禄・慶長の役では、豊臣秀吉は朝鮮半島への大規模な遠征軍を派遣しましたが、この際にも瀬戸内海の元水軍衆が大動員されました。彼らは補給路の維持や海上輸送、そして朝鮮水軍との戦闘に従事しました。しかし、李舜臣率いる朝鮮水軍のゲリラ戦術や亀甲船によって、日本の水軍は苦戦を強いられます。この戦いは、これまでの日本の水軍が培ってきた技術や戦術が、外洋での大規模な海戦や、新たな技術革新に十分に対応できていなかった側面も露呈させました。

かくして、戦国時代の終焉と共に、瀬戸内海の「海賊」たちは、その歴史的な役割を終え、近世国家の統制下に組み込まれていくことになります。彼らが築き上げた海上支配のシステムは、新たな時代にはそぐわないものとなっていったのです。しかし、彼らが培った航海術や海上戦闘の技術、そして地域社会における影響力は、形を変えながらも江戸時代へと受け継がれていくことになります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました