古代の豪族から近代の士族へ:武士の変遷と興亡(第4回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、ご意見や誤りなどはコメントいただけると幸いです。

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やがて武士の社会においても、経済や所領相続の問題から、統治機構が壊れていきます。

鎌倉幕府が確立した武士の世は、約150年続きました。しかし、内外からの新たな圧力により、その安定は揺らぎ始めます。元寇による疲弊、幕府の滅亡、そして南北朝の争乱を経て、武士の社会は大きく変容し、やがて「下剋上」が横行する戦国時代へと突入していきます。

第4章:動乱の時代と武士の変容 – 南北朝から戦国へ

4.1 元寇と武士たちの疲弊

鎌倉時代も後半に入ると、日本は新たな未曽有の危機に直面します。それは、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国(元)による二度の襲来、いわゆる「元寇」です。

一度目の文永の役(1274年)と、二度目の弘安の役(1281年)において、元軍は日本に上陸を試み、九州の武士たちを中心に激しい抵抗を受けました。武士たちは、命をかけて国難に立ち向かい、特に二度目の襲来では、幸運にも「神風」と呼ばれる暴風雨に助けられ、元軍は壊滅的な打撃を受けて撤退しました。

この元寇は、日本が外国からの侵略を初めて本格的に経験したという意味で、国家存亡の危機でした。しかし、一方で、鎌倉幕府の御家人制度に大きなひずみを生じさせることになります。なぜなら、これまでの戦では、勝利すれば敵から奪った土地や財物を恩賞として御家人に与えることができました。ところが、元寇は防衛戦であり、新たな領地を獲得することはできませんでした。

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元寇は、幕府の財政を圧迫し、御家人たちの不満を募らせることで、鎌倉幕府滅亡の一因をなしました。

そのため、命がけで戦った御家人たちは、期待した「恩賞」を得られず、多くの者が戦費のために借金を抱え、困窮しました。幕府は、御家人の窮状を救済するため、借金を帳消しにする永仁の徳政令(1297年)を発布するなどしましたが、これは一時的な効果しかなく、かえって御家人たちの信用不安を招き、経済活動を停滞させました。

4.2 鎌倉後期に現れた新勢力「悪党」の台頭

元寇後の疲弊に加え、鎌倉時代後期には、これまでの武士像とは異なる新たなタイプの武装勢力が各地で台頭し始めます。彼らは「悪党」と呼ばれ、その存在は当時の社会秩序を大きく揺るがすことになります。

「悪党」とは、幕府や荘園領主、国司といった既存の権力や法秩序に従わず、時に武装蜂起して年貢の納入を拒否したり、他者の所領を侵犯したりするなど、旧体制から見て「悪」と見なされた行為を行う者たちを指す呼称でした。彼らの多くは、荘園の不法占拠者、地頭や御家人でありながら幕府の統制に従わない者、あるいは没落した貴族や神官・僧侶などが武装したもので、その出自は多様でした。彼らはゲリラ戦術に長け、従来の武士とは異なる非合法的な手段を用いて自らの利権を追求しました。

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既存の権威に逆らい、実力で自らの道を切り拓こうとする悪党の登場は、鎌倉幕府の求心力低下と、来るべき大動乱の時代を予見させるものでした。

悪党の代表格として特に有名なのが、後の南北朝時代に後醍醐天皇を支えた楠木正成です。彼は河内国を拠点とした小規模な豪族でしたが、その卓越したゲリラ戦術と奇抜な発想で、幕府の大軍を翻弄しました。

悪党の台頭は、鎌倉幕府の地方支配が緩み、社会秩序が不安定化していたことを如実に示しています。彼らは、従来の御恩と奉公の関係に縛られない独自の行動原理を持ち、後の下剋上や戦国時代の原点ともいえる存在でした。

4.3 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

元寇後の疲弊に加え、北条氏による執権政治が長期化する中で、幕府の求心力は徐々に低下していきました。この状況を好機と捉えたのが、朝廷の後醍醐天皇です。後醍醐天皇は、天皇親政の復活を目指し、幕府打倒の兵を挙げます(正中の変、元弘の変)。

当初、天皇の倒幕運動は成功しませんでしたが、各地で反幕府勢力が蜂起し、やがて幕府の有力御家人である足利尊氏や、新田義貞らが天皇側に寝返ったことで、状況は一変します。特に、足利尊氏が六波羅探題を攻め落としたことは、幕府にとって致命的な打撃となりました。

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建武の新政は、公家中心の政治体制を築こうとしたことに対して、武士たちが失望しいきました。

1333年、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条氏が滅亡したことで、鎌倉幕府はその歴史に幕を下ろしました。

幕府滅亡後、後醍醐天皇は、貴族政治と武士政治の融合を目指す建武の新政を開始します。天皇は自らが直接政治を行うことを理想とし、公家中心の政治体制を築こうとしました。しかし、新政は多くの武士たちの期待を裏切る結果となりました。恩賞は公平に与えられず、武士たちの所領安堵も不十分で、貴族中心の政策は武士たちの反発を招きました。また、複雑で混乱した訴訟制度も、武士たちの不満を増大させました。

4.4 南北朝の争乱と足利幕府の確立

建武の新政に対する武士たちの不満が募る中、足利尊氏が再び歴史の表舞台に登場します。足利氏は、源氏の嫡流である清和源氏の流れを汲む名門であり、源頼朝と同じ「源氏の棟梁」としての正統性を持つ家柄でした。当初は後醍醐天皇の忠臣であった尊氏ですが、新政への不満から、多くの武士たちの期待を背負って天皇に反旗を翻します。

1336年、尊氏は湊川の戦いで新田義貞らを破り、後醍醐天皇を京から追放しました。尊氏は、京に新たな天皇を擁立し、自らは室町に武士政権室町幕府を樹立します。一方、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)に逃れ、自らの朝廷を樹立しました。これにより、一つの日本に二つの朝廷が存在する「南北朝の争乱」が約60年にわたって続くことになります。

この南北朝の争乱は、日本全国を巻き込む大動乱となりました。各地の武士たちは、自らの利害や忠誠心に基づいて南朝方と北朝方に分かれ、長期にわたる戦いを繰り広げました。この過程で、幕府を支える守護は、従来の軍事・警察権に加えて、年貢徴収権や土地の管理権など、より広範な権限を現地で獲得し、守護大名へと成長していきます。彼らは、自らの支配領域において半独立的な勢力となり、中央の統制が次第に及ばなくなっていきました。

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室町幕府は、守護大名の統制が上手くいかず、後の戦国時代へとつながる土壌が形成されます。

1392年、三代将軍足利義満が、南北朝の合一を実現させ、争乱はようやく終結しました。義満は、金閣寺(鹿苑寺)に代表される北山文化を花開かせ、明との勘合貿易を行うなど、室町幕府の全盛期を築き上げます。しかし、守護大名が自らの領国支配を強化する傾向は止まらず、後の戦国時代へとつながる地方分権化の土壌が形成されていきました。

4.5 惣領制の動揺と長子単独相続への移行

鎌倉時代を通じて武士社会の基盤を支えてきた惣領制は、南北朝の争乱を経て、大きく動揺し、次第に崩壊へと向かいます。

本来、惣領制は一族の所領が細分化されるのを防ぎ、惣領の統率の下で一族全体の軍事力と経済力を維持するための制度でした。しかし、度重なる戦乱は、武士たちに大きな負担を強いました。戦場で多くの命が失われ、その都度、所領の再編成や恩賞の分配が必要となりました。この中で、惣領が必ずしも一族全員の生活を保障できなくなるケースが増え、また、戦功を挙げた庶子が、惣領とは別に直接将軍や守護から所領を与えられることも多くなりました。

さらに、惣領を巡る一族内部の対立も激化します。分割相続では、兄弟姉妹がそれぞれ所領を持つため、相続を巡る争いが頻発し、一族が離反する要因となりました。このような背景から、一族の所領を確実に守り、軍事力を維持するためには、所領の細分化を防ぐことが喫緊の課題となりました。

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惣領をめぐる一族内の相続争いは、後の応仁の乱の原因となります。

そこで、徐々にではありますが、所領を嫡子(長子)一人に全て相続させる「長子単独相続」の傾向が強まっていきます。これは、家や所領を維持するための現実的な選択であり、室町時代を通じてその動きは加速し、戦国時代には武家社会の一般的な相続形態として確立されていきました。長子単独相続は、一族間の争いを減らし、家の統制力を高める効果があった一方で、庶子や他の兄弟姉妹は新たな土地を求めて独立するか、惣領の家臣となるか、あるいは没落の道を辿るしかなくなるという新たな社会問題も生み出しました。

4.6 下剋上と戦国大名:足軽の発生と応仁の乱が招いた大規模内乱とその影響

室町幕府の基盤が確立された後も、将軍の権威は次第に衰え、守護大名同士の対立や、守護大名家内部の家臣による下剋上が頻発するようになります。

このような時代の混沌の中で、「足軽」と呼ばれる新たなタイプの兵士が数多く登場しました。足軽は、もともと下級の歩兵を指す言葉でしたが、南北朝の争乱期以降、農民や非定住者、没落した武士など、従来の武士身分ではない者が、傭兵として大名や有力武士に雇われるようになりました。彼らは、簡単な武装を身につけ、ときに略奪行為にも及ぶなど、その行動はしばば不安定で制御が難しい面もありました。

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足軽は戦闘の最前線で槍や弓を扱い、時に火付けや奇襲を行うなど、従来の武士では担いきれない役割を果たすようになります。

足軽の発生は、戦乱の長期化と社会の流動化を象徴しています。彼らは、土地に縛られた従来の武士とは異なり、日銭や恩賞を求めて戦場を渡り歩く、まさに「プロの兵士」の萌芽であり、後の兵農分離の進展にも繋がる存在でした。戦国大名たちは、大量の足軽を組織し、彼らを戦力として活用することで、大規模な集団戦を行うことが可能となりました。

この時代の混沌を象徴する出来事が、応仁の乱(1467年-1477年)です。

応仁の乱は、室町幕府の将軍後継問題と、有力守護大名である細川勝元と山名宗全の対立が複雑に絡み合って勃発しました。この乱は、単なる中央の争いにとどまらず、両陣営が全国の守護大名やその家臣団を巻き込み、京の都を主戦場に11年にもわたって繰り広げられました。

応仁の乱が引き起こされた背景には、まさに惣領制の崩壊と長子単独相続への移行期における一族内の不安定性がありました。多くの守護大名家では、惣領と庶子の関係が揺らぎ、家督争いが絶えませんでした。また、家臣団の中にも、主家を凌ぐ実力を持つ者が現れ始め、下剋上を伺う機運が高まっていました。応仁の乱は、これらの内包された矛盾が一気に噴出した結果と言えるでしょう。

この乱により、京の都は焼け野原となり、幕府の権威は完全に失墜しました。乱後、有力守護大名は自領国に引きこもり、中央からの統制はほとんど及ばなくなります。各地では、守護大名に代わって、その家臣や新興の武士たちが実力で領地を支配するようになり、彼らが「戦国大名」と呼ばれる存在です。

応仁の乱がもたらした影響は、良くも悪くも多岐にわたります。

  • 悪い面としては、長期にわたる戦乱が国土を荒廃させ、民衆に甚大な被害をもたらしました。また、中央権力の崩壊は、日本全体を恒常的な内戦状態へと引きずり込み、統一国家の形成を大きく遅らせました。
  • 良い面としては、旧来の血縁や身分にとらわれず、実力と才覚があればのし上がれる「下剋上」の風潮が生まれたことです。これにより、社会全体に活力が生まれ、新たな産業や文化が地方で発展するきっかけともなりました。戦国大名たちは、自らの領国を強固に支配するため、分国法と呼ばれる独自の法律を制定し、検地を行うなど、領国経営を強化しました。これは、後の豊臣秀吉や徳川家康による統一国家の基盤となる先進的な統治システムの萌芽でもありました。

この乱を境に、日本は百年にわたる戦乱の時代、すなわち「戦国時代」へと突入していくことになります。

4.7 鉄砲伝来と戦術の変化

戦国時代の武士の戦い方に革命をもたらしたのが、16世紀半ばに日本に伝来した鉄砲です。1543年、ポルトガル人が種子島に漂着したことで鉄砲が日本にもたらされると、その強力な破壊力と殺傷能力は、瞬く間に戦国大名たちの注目を集めました。

それまでの日本の合戦は、騎馬武者による一騎打ちや弓矢、槍が主な武器であり、武士個人の武勇や熟練した技量が勝敗を左右する側面が強いものでした。しかし、鉄砲は訓練さえすれば誰でも扱える上に、遠距離から敵を殺傷できるため、戦術に大きな変化をもたらしました。

鉄砲の普及は、合戦の規模を拡大させ、集団戦の重要性を高めました。これにより、個々の武士の武勇よりも、組織的な統率力や兵站能力がより重視されるようになります。また、鉄砲の大量生産には経済力が必要であり、これもまた戦国大名の勢力拡大競争に影響を与えました。鉄砲伝来は、日本の戦国時代の様相を一変させ、天下統一の道を切り拓く重要な要素となったのです。

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