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武士が貴族に変わって、日本の支配者になっていきます。
地方で力を蓄えた武士たちは、次第に中央政治の舞台へと進出していきます。その転換点となったのが、京の都で起こった二つの大きな争乱でした。これにより、武士は貴族に代わって日本の支配者としての道を歩み始め、独自の政権と社会システムを築き上げていくことになります。
第3章:武士の時代を拓く – 鎌倉幕府の成立と武家社会の確立
3.1 保元・平治の乱:武士の時代の幕開け
12世紀半ば、それまで日本の政治を主導してきたのは、天皇や上皇、そして摂関家といった貴族たちでした。しかし、彼らの内部対立が激化すると、その解決のために地方で武力を蓄えていた武士たちが動員されるようになります。
最初の大きな衝突は、保元の乱(1156年)です。これは、崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承を巡る争いに、藤原氏の内部対立が絡んで勃発しました。この乱で、後白河天皇側には平清盛と源義朝という、当時の武士の二大勢力が動員されました。彼らは貴族の命令を受け、京の市中で初めて大規模な武力衝突を繰り広げ、武士の軍事力が中央政治の趨勢を決定づけることを示したのです。乱は後白河天皇側の勝利に終わり、清盛と義朝はその功績によって中央での地位を高めました。
しかし、そのわずか3年後に起こったのが、平治の乱(1159年)です。これは、保元の乱で共闘した平清盛と源義朝の間で、権力掌握を巡る対立が表面化したものです。義朝は藤原信頼と結んで清盛を襲撃しますが、清盛はこれを退け、義朝を破りました。この結果、源義朝は敗死し、その子の源頼朝は伊豆に流刑となります。
平治の乱の勝利によって、平清盛は武士として初めて太政大臣に就任するなど、貴族社会の頂点に立ちました。平氏一門は公家と武家の双方を兼ねる存在として権勢を振るい、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われるほどの繁栄を極めます。保元・平治の乱は、もはや貴族の力だけでは政治を動かせなくなり、武士が本格的に日本の政治中枢に介入する時代の幕開けを告げるものでした。
3.2 源平合戦と源頼朝の戦略:平氏と源氏の「コンセプト」の違い
平氏の独裁的な政治は、やがて後白河法皇や貴族、さらには地方の武士たちの反発を招きます。1180年、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討の令旨を発すると、これを契機に全国各地で反平氏の動きが活発化しました。これが世に言う「源平合戦」の始まりです。
この源平合戦において、平氏と源氏、特に源頼朝の戦略には決定的な「コンセプト」の違いがありました。
京で権勢を誇った平清盛は、武力で政権を握った後も、その統治のあり方は従来の貴族政治の延長線上にありました。娘を天皇の后とし、その皇子を即位させて天皇の外戚となることで、摂関家(藤原氏)が辿った道をなぞり、一族の栄華を追求したのです。彼らは多くの公家官職を独占し、全国の荘園や公領を支配して経済基盤を確立しましたが、これはあくまで「平氏一門の繁栄」に主眼が置かれ、全国の武士が共通して抱えていた「土地の支配と安堵」という切実なニーズには、十分に応えようとはしませんでした。その結果、平氏に従わない地方の武士は排除の対象となり、武士全体の支持を得ることはできませんでした。

源頼朝は伊豆に流され武士の実情を目のあたりにしたことで、武士が何を望んでいるのかを理解することが出来ました。
一方、流刑地であった伊豆で挙兵した源頼朝は、父・義朝の敗北から学び、平氏とは異なる戦略を打ち立てました。頼朝が着目したのは、全国に散らばる武士たちが抱える共通の願いでした。それは、不安定な所領(土地)を「公的」に認められ、その支配を保障しらうこと、そして、それに対する奉公を「武士の棟梁」として統率してくれる存在でした。頼朝は、弟の源義経や源範頼たちが西国で平氏と戦う一方で、自身は鎌倉に留まり、軍事指揮官ではなく、あくまで武士のリーダーとして政権樹立の準備を進めました。
頼朝は、坂東(関東)の武士たちに対し、彼らの所領を安堵し、武士間の紛争を公正に裁くことを約束しました。これにより、「公式に自分の土地を持ちたい」という東国武士の長年のニーズをまさに満たし、強固な主従関係を築き上げました。これが、頼朝が平氏を圧倒する勢力を拡大できた最大の要因であり、後の鎌倉幕府設立の礎となったのです。
平氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏が滅亡すると、頼朝は後白河法皇に対し、自らの支配体制を確立するための要求を突きつけます。それが、全国に守護と地頭を設置する権利の獲得でした。これにより、頼朝は全国の武士を組織化し、朝廷の支配とは異なる独自の支配体制を築き上げることに成功したのです。
3.3 鎌倉幕府の成立:武士による初の全国政権と征夷大将軍の意義
源平合戦の終結後、源頼朝は京の朝廷から距離を置いた鎌倉に本拠地を構え、武士による新たな政権の確立を進めました。1192年、頼朝は征夷大将軍に任じられ、これにより鎌倉幕府が名実ともに成立しました。これは、日本史上初の武士による全国政権の誕生であり、政治の中心が京の都から鎌倉へと移った画期的な出来事でした。
ここで特筆すべきは、源頼朝がなぜ数ある官職の中から「征夷大将軍」の地位を強く望んだのか、という点です。当時、朝廷には近衛大将のような軍事の最高職もありましたが、これらはあくまで京の都の防衛や朝廷の警護を目的とした官職であり、地方の武士団を全国的に統率し、彼らに指示を与える権限は持ちませんでした。
しかし、征夷大将軍は、蝦夷征討の際に、遠隔地で臨時に組織された軍を統率する最高司令官としての性格が強く、京に常駐する必要がないという特徴がありました。この職は、広大な辺境地域を軍事的に制圧し、その地を統治する権限を持つと解釈できる官職だったのです。頼朝は、まさにこの「遠隔地での独立した軍事・統治権」という征夷大将軍の性格を見抜き、それを手に入れることで、朝廷の支配下ではない、武士による独自の政治組織(幕府)を鎌倉に確立することを可能にしました。

頼朝は征夷大将軍という位置を通じて、全国の武士を私的に統率するだけでなく、公的な枠組みの中で武士を動かす正当性を獲得したのです。
鎌倉幕府は、将軍を頂点とし、その下に御家人と呼ばれる主従関係で結ばれた武士たちが組織されました。御家人は将軍に対し、軍役や警固などの奉公を行い、将軍からは所領の安堵や新たな土地の給与(新恩給与)といった御恩を受けました。この御恩と奉公を基盤とする封建的主従関係は、鎌倉幕府を支える最も重要な社会システムとなりました。
幕府は、将軍の直轄機関として、政治を司る政所、軍事と警察を司る侍所、そして訴訟を扱う問注所を設置しました。これらの組織を通じて、幕府は全国の武士を統制し、地方の治安維持にあたるとともに、経済的な基盤を確立していきました。鎌倉幕府の成立は、貴族中心の社会から武士中心の社会へと、日本の歴史が大きく転換したことを意味します。
3.4 鎌倉幕府の全国支配を支えた「守護・地頭」
鎌倉幕府の全国支配を支えた最も重要な地方機関が、守護と地頭でした。これらの役職は、平氏滅亡後の1185年、源頼朝が弟・義経追討という名目で後白河法皇から全国への設置を認めさせたものです。これは、実質的に幕府の支配権を全国に拡大する画期的な措置でした。
- 守護:各国に一人ずつ置かれ、主にその国の軍事と警察を担当しました。主な職務は、大犯三箇条と呼ばれるもので、具体的には大番催促(京や鎌倉への御家人の警護役を命じること)、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕でした。守護は、国中の御家人の統率者としての役割も果たし、彼らを通じて幕府の命令を地方に浸透させました。
- 地頭:全国の荘園や公領(国司が支配する土地)に置かれ、その地の治安維持と年貢の徴収、土地の管理にあたりました。地頭は、現地において武力と経済力を兼ね備えた存在であり、幕府の命令を直接執行する最前線の役人でした。特に、平家から没収された所領(旧平家領)には多く地頭が設置され、幕府の経済的基盤を支えました。
守護と地頭は、いずれも将軍と主従関係を結んだ御家人の中から任命されました。彼らは自らの所領の安堵や新恩給与という「御恩」の見返りに、これらの職務を果たす「奉公」を行いました。これにより、鎌倉幕府は、朝廷の国司や荘園の領主とは異なる独自のルートで、全国の土地と人民、そして武士を掌握する体制を築き上げたのです。この守護・地頭制こそが、鎌倉幕府の全国的な権力基盤を確立し、後の武家政権の地方支配の基礎となりました。
3.5 武士の土地相続と社会構造:分割相続と惣領制
鎌倉時代の武士社会を理解する上で、彼らの土地相続のあり方は非常に重要です。初期の武士社会では、所領は基本的に分割相続が一般的でした。これは、父が持つ所領を、嫡男だけでなく、他の男子や時には女子にも均等あるいはそれに近い形で分割して相続させる制度です。特に、女性が土地を相続し、家を継ぐことも珍しくありませんでした。
しかし、分割相続は、代を重ねるごとに所領が細分化され、武士個々の経済力が低下するという問題を生じさせました。そこで、所領の細分化を防ぎ、一族の結束を維持するために発達したのが惣領制です。惣領制とは、一族の長である「惣領」が、一族全体の所領や郎党を統括し、一族を代表して将軍との主従関係を維持する制度です。他の兄弟たちは「庶子」として惣領に従い、惣領を通じて将軍に奉公しました。
惣領制は、一族の軍事力や経済力を維持する上で有効な仕組みでしたが、一方で、惣領と庶子間の所領配分や権限を巡る争いも絶えませんでした。特に、嫡子ではない庶子の不満や、惣領の統率力低下は、一族内部の対立を激化させる要因にもなりました。この惣領制は、鎌倉武士の結束を支える一方で、潜在的な内紛の火種を抱えていたのです。
3.6 承久の乱:武士政権の盤石化と惣領制の変質
源頼朝が死去した後、鎌倉幕府の内部では権力闘争が起こります。特に、頼朝の正妻である北条政子とその実家である北条氏が、幼い将軍を補佐する執権として実権を握っていきました。
これに対し、朝廷の後鳥羽上皇は、失われた天皇中心の政治を取り戻そうと画策します。1221年、上皇は幕府追討の兵を挙げます。これが、日本史における最大の内乱の一つである承久の乱です。
北条政子は、御家人たちに対し、頼朝以来の御恩と奉公の関係を強調し、「武士の世を守るため、今こそ結束せよ」と訴えました。これに動かされた多くの御家人は幕府方として参戦し、上皇方を圧倒しました。乱はわずか一ヶ月で幕府の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐に流され、幕府は朝廷の監視のため京に六波羅探題を設置しました。

上皇が武士によって裁かれる。。。権力が朝廷から武士に移った瞬間でした。
承久の乱の勝利は、鎌倉幕府が朝廷を圧倒する武士政権としての地位を盤石なものにしたことを意味します。この乱を契機に、幕府は上皇方の所領を没収して御家人に与え、支配を一層強化しました。
3.7 御成敗式目:武士の倫理と法の明文化
承久の乱後、北条氏による執権政治が確立されると、三代執権北条泰時は、武士社会の安定と秩序維持のために、法律を制定します。それが1232年に制定された御成敗式目です。

御成敗式目は、形骸化していた律令に代わる「武士のための法律」で、実務的な内容になっています。
これは、それまでの律令法や慣習法に代わり、武士社会の道理や慣習に基づいて定められた、武士のための法律でした。御成敗式目は、御恩と奉公の原則、所領に関する争いの解決、犯罪に対する罰則などを具体的に規定し、公平な裁判の実現を目指しました。特に「道理」という概念を重視し、武士が社会で生きていく上での倫理観や規範意識を明確にしました。
御成敗式目は、御家人だけでなく、全国の武士に広く適用され、鎌倉幕府の支配を法的に裏付ける役割を果たしました。この法律は、武士が支配する社会に合わせた独自の法体系を確立した点で画期的であり、後の武家法にも大きな影響を与えました。これにより、武士社会は単なる武力集団ではなく、法に基づいた統治を行う「公」の存在として、その正当性を高めていったのです。
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