瀬戸内海の「海賊」たち:水軍と交易の歴史(第1回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、ご意見や誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
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村上水軍に代表される瀬戸内海の海賊について、古代から見ていきます。

「海賊」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか? おそらく、多くの人がイメージするのは、荒くれ者たちがガイコツの旗を掲げ、財宝を求めて略奪の限りを尽くす。どこか物騒なイメージが先行しがちです。

しかし、日本、特に瀬戸内海における「海賊」の歴史は、それとは大きく異なる側面を持っています。もちろん、略奪行為が皆無だったわけではありません。しかし、彼らは単なる無法者ではなかったのです。むしろ、古代から近世にかけて、瀬戸内海の経済、軍事、そして文化を支える上で欠かせない存在でした。彼らは時に「水軍」と呼ばれ、国家や有力大名に仕える海上軍事力として、また時には「警固衆」として、海上交通の安全を保障する存在として、複雑な役割を担っていました。

はじめに:瀬戸内海と「海賊」のイメージの多面性

なぜ、瀬戸内海で独自の「海賊」が誕生したかと言うと、その答えは、瀬戸内海の地理的特性にあります。本州、四国、九州に囲まれた瀬戸内海は、古くから天然の良港に恵まれた多島海です。外洋の荒波から守られた穏やかな海は、日本列島を東西に結ぶ大動脈として、人や物の往来に不可欠な役割を果たしてきました。膨大な数の島々が点在するこの海域は、海上勢力にとっては隠れ家となり、また活動拠点ともなり得る理想的な場所だったのです。陸路の整備が未熟だった時代、日本の流通・交通は海上交通に大きく依存しており、その中心にあったのが瀬戸内海でした。

本記事では、そんな瀬戸内海の「海賊」たちの足跡を、古代から近世へと時代を追って俯瞰していきます。彼らがどのように生まれ、どのようにして力をつけ、そしていかにして日本の歴史の大きなうねりの中で変容していったのか。単なる「悪役」としてではなく、その実像を多角的に掘り下げ、彼らが瀬戸内海の歴史、ひいては日本の歴史において果たした深遠な役割を探っていきます。

古代~中世初期:水軍の萌芽と支配の確立~荒れる海と中央の揺らぎ

瀬戸内海の海上勢力の歴史を紐解くには、まず日本の古代国家がどのように海を認識し、支配しようとしたのかから始める必要があります。

律令国家の海上統制と限界:平安遷都と瀬戸内海の防衛

古代の日本において、海上交通は陸路に劣らず、いやそれ以上に重要な役割を担っていました。特に、大陸との交流や、日本各地の物資を畿内へ集積するためには、安全な海上ルートの確保が不可欠でした。瀬戸内海は、畿内と九州、ひいては朝鮮半島・中国大陸を結ぶ大動脈であり、その重要性は計り知れません。

案内者
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瀬戸内海は、畿内に通じる海上ルートとして大きな役割を担っていました。

律令国家が成立すると、朝廷は海上交通の要衝に水軍を配置したり、海民を組織化したりする試みを始めます。奈良時代には瀬戸内海沿岸の国々に防人を配置し、海上からの侵攻に備えるとともに、瀬戸内海の航路の監視を行っていました。平安遷都(794年)によって都が内陸の京都に移されても、瀬戸内海の戦略的重要性は揺らぎませんでした。むしろ、都への物資輸送の生命線として、その航路の安全確保は朝廷の喫緊の課題であり続けます。

しかし、律令国家の支配は必ずしも海の隅々にまで及ぶものではありませんでした。広大な海域、特に無数の島々が点在する瀬戸内海では、中央政府の統制が及ばない地域も多く、早くから在地勢力、すなわち有力な豪族たちが海を拠点に力を蓄え始めていました。伊予国の越智氏や、後の河野氏に繋がる勢力などがその代表例です。彼らは、自らの船団を所有し、漁業や交易を行う一方で、時に通行する船から徴収を行ったり、あるいは略奪に近い行為を行ったりと、徐々に「私的武装集団」としての性格を強めていきます。これらの在地勢力の存在は、律令国家が描いた秩序ある海上交通の理想と、現実の海の姿との間に大きな乖離があったことを示しています。

藤原純友の乱:「海賊」の原点にして「王臣家」の反乱

そんな律令国家の揺らぎと海の私的武装集団の台頭が顕在化したのが、10世紀中頃に発生した藤原純友の乱です。この乱は、陸奥の平将門の乱と並び称される、平安中期の二大反乱として知られます。

案内者
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反乱を起こした藤原純友は、藤原北家の流れを汲み、伊予に赴任した役人です。

純友は、平安京の貴族である藤原北家良門流の出身で、伊予掾(伊予国の三等官)として地方に赴任した人物です。地方政治の腐敗、特に有力受領による苛烈な徴税や、中央から派遣される役人の横暴に対し、地方の豪族や不満を抱く民衆の間で不満が高まっていました。純友は、そうした地方の不満分子、特に瀬戸内海の海上勢力(海賊)を糾合し、反乱を起こしました。

純友の乱の特徴は、何よりもその海上における展開にあります。純友は、瀬戸内海の要衝である日振島(愛媛県宇和島市)を本拠地とし、地の利を最大限に活かしました。多島海の地形は、純友軍にとって天然の要害となり、また奇襲攻撃や撤退に有利な拠点となりました。純友は、伊予国府を襲撃して略奪を行い、その後、瀬戸内海の制海権を掌握していきます。彼の勢力は九州にまで及び、一時は大宰府を占領するほどの勢いを見せました。これは、当時の朝廷にとって前代未聞の事態であり、いかに瀬戸内海の海上勢力が強大であったかを示すものです。

朝廷は、小野好古や源経基といった武将を派遣して純友の追討にあたらせ、最終的には乱は鎮圧されます。しかし、純友の乱は、中央の統治能力が地方、特に海上にまで及ばなくなったことを如実に示し、その後の武士の時代、そして海上勢力の自立への道を拓く大きな転換点となりました。この時期の「海賊」とは、必ずしも単なる略奪者ではなく、律令国家の枠組みから外れた独立した武装集団であり、時には地方の政治情勢を左右するほどの力を持っていたのです。

武士の台頭と海上勢力の変質:平安末期~鎌倉時代

藤原純友の乱以降も、瀬戸内海では在地海上勢力の活動が活発でした。そして平安時代末期になると、歴史の表舞台に「武士」が本格的に登場します。源氏と平氏が日本の覇権を巡って争った源平合戦において、瀬戸内海は主戦場の一つとなりました。

特に、屋島の戦いや、日本史上の転換点となった壇ノ浦の戦い(1185年)では、海上勢力の役割が決定的なものとなりました。平家は瀬戸内海を本拠としており、多くの海上勢力を自らの水軍として組織していました。対する源氏もまた、熊野水軍など紀伊半島の海上勢力を味方につけ、海の戦いに臨みました。壇ノ浦の戦いでは、潮の流れを読む力や、小船を巧みに操る水軍の技術が勝敗を分けたと言われています。この戦いを経て、源氏が天下を掌握し、鎌倉幕府が開かれますが、海の戦いの重要性が改めて認識されることとなりました。

鎌倉時代に入ると、幕府は全国の武士を御家人として組織化し、瀬戸内海の海上勢力もその支配体制に組み込まれていきます。彼らは御家人として、幕府からの所領安堵を受ける一方で、海上の警備や有事の際の動員に応じる義務を負いました。

しかし、鎌倉時代後期になると、荘園制の矛盾が表面化し、社会秩序が不安定になります。この時期に各地で頻発したのが「悪党」と呼ばれる武装集団の活動です。「悪党」は、荘園領主の支配に抵抗したり、自立した経済活動を行ったりする存在で、その中には瀬戸内海の海上を拠点とする勢力も含まれていました。彼らは荘園の年貢米を強奪したり、通行する船を襲ったりと、まさに「海賊」的な行為を行いましたが、その背景には、中央権力の弱体化と、地方における自立的な勢力の台頭という複雑な社会情勢がありました。

この時代の海上勢力は、もはや純粋な「海賊」でも、純粋な「水軍」でもありませんでした。彼らは、権力者からは「悪党」や「海賊」と見なされながらも、自らの生活と経済的基盤を守るために、独自の論理と武力を持って瀬戸内海に君臨し始めていたのです。そして、この混沌とした状況の中から、後の室町時代に名を馳せる村上水軍のような大勢力が生まれる土壌が培われていくことになります。

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