※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

天皇は象徴となり、公家は消え去りましたが、家名が滅んだわけではなく、公家の血は今でも脈々と受け継がれています。
明治維新によって、天皇は名実ともに日本の最高権力者として復権しました。しかし、それは旧来の朝廷や公家社会の姿をそのまま引き継ぐものではありませんでした。近代国家建設という目標を掲げた明治新政府のもとで、天皇と皇室は新たな国民統合の象徴としての役割を担い、公家たちはその特権と役割を大きく変革させていくことになります。本章では、明治維新以降、日本の国家体制が大きく変貌していく中で、天皇と皇室、そして旧公家たちが昭和初期の戦前期までどのような道を歩んだのかを辿ります。
第八章:明治以降~:近代国家における天皇と皇室、そして公家は
明治憲法下の天皇:神聖不可侵の「統治権の総攬者」
明治維新によって樹立された明治新政府は、欧米列強に対抗しうる近代国家を建設するため、様々な改革を断行します。その根幹をなしたのが、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)です。

明治憲法下の天皇は、旧来の朝廷の枠を超え、近代国家の最高機関、国民統合の象徴として、その存在感を確立していきました。
明治憲法は、君主主権を明確に掲げ、天皇を「統治権の総攬者」、すなわち全ての統治権を一身に集約する存在と定めました。
- 神聖不可侵の地位: 天皇は「神聖にして侵すべからず」とされ、その地位は絶対的なものとされました。天皇は、国の元首として、陸海軍の統帥権、宣戦・講和の権限、条約の締結権、官吏の任免権など、広範な権限を持つと規定されました。
- 「万世一系」と国民統合の象徴: 天皇は「万世一系」の血統として、日本の歴史と伝統の中心に位置づけられました。これは、日本においては天皇を中心とした国民統合が図られたことを意味します。天皇は、国民が帰属意識を持つ対象となり、国家の統一と発展を支える精神的支柱としての役割を担うことになりました。
- 制限された立憲君主制: 明治憲法は「立憲君主制」の枠組みをとっており、天皇の権限は憲法によって制限されていました。天皇大権の行使には国務大臣の輔弼(助言と責任)が必要とされ、法律の制定には帝国議会の協賛が不可欠でした。
- 教育勅語と天皇制イデオロギー: 明治政府は、天皇を中心とする国家体制を国民に浸透させるため、教育にも力を入れました。1890年(明治23年)に発布された教育勅語は、国民道徳の規範として、忠君愛国の精神を説き、天皇制イデオロギーの確立に大きな役割を果たしました。これにより、天皇は単なる政治的権威を超え、国民の精神生活のよりどころとしての色彩を強めていきました。
華族制度の確立と公家の新たな役割
明治維新によって、旧公家たちはその政治的特権を失いましたが、新たな形で国家体制の中に組み込まれました。

天皇とは異なり、公家たちは政治からは遠ざけられ、公家は存在意義を失いました。
- 華族の創設: 新政府は、旧公家と旧大名家を統合し、1884年(明治17年)に華族令を定め、新たに華族という貴族階級を創設しました。華族は、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵に分けられ、経済的な保障と、貴族院議員としての政治的特権を与えられました。これは、旧体制のエリート層を新体制に包摂することで、社会の安定を図る目的がありました。 特に、旧公家たちは、その家格や功績に応じて爵位を与えられました。
- 政治的実権の喪失と名誉職: 華族制度は、公家たちが政治の実権を握ることを目的としたものではありませんでした。むしろ、近代的な官僚制度や議会制度が整備されていく中で、公家たちは政治の第一線から退き、「名誉職」的な存在へと変化していきました。彼らの多くは、華族としての格式と経済的安定を享受する一方で、近代国家運営の実務は、薩長出身の官僚や、海外で学んだ新興エリート層に委ねられていきました。
- 貴族院の役割: 華族は、帝国議会の一院である貴族院の議員となる特権を有しました。貴族院は、衆議院に対する抑制力として機能し、政府の方針を補完する役割を担いました。しかし、その権限は衆議院に比べて限定的であり、華族がかつてのように政治を主導する力を持つことはありませんでした。
このように、明治以降の公家たちは、「華族」という新たな身分を得ましたが、それは彼らが実質的な政治権力から遠ざけられ、近代国家における「名誉的なエリート層」として再編されたことを意味しました。彼らは、かつて朝廷を舞台に政治を動かした「公家」としての存在意義を終え、日本の歴史における一つの時代が幕を閉じたのです。
戦前に活躍した公家出身の政治家たち
明治維新後、公家は政治の中枢から退いたものの、中には近代国家の要職に就き、日本の政治に大きな影響を与えた者もいます。彼らは、旧来の公家としての教養や家柄に加え、時代の変化に対応する能力や国際感覚を身につけ、新たな役割を担いました。
- 西園寺公望: 明治維新で活躍した公家の中でも特に異色の経歴を持つ人物です。摂関家に次ぐ清華家の西園寺家出身でありながら、早くからフランスへ留学して西洋思想を学びました。明治政府では文部大臣、枢密院議長などを歴任し、二度にわたって内閣総理大臣を務めました。立憲政友会総裁として内閣を組織したことは、華族でありながら政党政治のトップに立った珍しい例です。彼は、戦前期の政治において最後の元老として穏健な方向性を模索し続けました。
- 近衛文麿: 摂関家である近衛家出身で、昭和初期の政治に大きな影響を与えました。彼は三度にわたって内閣総理大臣を務め、太平洋戦争開戦前夜の極めて困難な時期に国政を担いました。戦前の公家出身者としては、最も首相を多く務めた人物です。彼が主導した新体制運動は、政党政治の枠を超えた国民的合意形成を目指すものでした。
これらの公家出身の政治家たちは、明治維新後の近代化の波の中で、旧来の地位とは異なる形で、日本の政治に貢献しました。彼らは、伝統と革新のはざまで、それぞれの立場で国政を担い、激動の時代を生き抜いたのです。
昭和初期:軍部の台頭と天皇の立場
大正デモクラシーを経て、昭和初期に入ると、日本は経済恐慌と国際情勢の緊迫化に直面します。この時期、軍部の政治的発言力が飛躍的に増大し、天皇の立場にも大きな変化が訪れます。

これ以降は、朝廷や公家ではなく、皇室の立ち位置の変化を見ていきます。
- 統帥権の独立: 明治憲法下では、天皇が軍の最高統帥権を持つとされていましたが、これは内閣の輔弼を受けない「統帥権の独立」という形で拡大解釈され、軍部が政府の統制を受けずに独走する根拠となりました。これにより、天皇の意思とは別に、軍部が独断で行動する場面が増加しました。
- 天皇機関説問題: 昭和初期には、天皇の地位を巡る天皇機関説問題が政治問題化しました。これは、美濃部達吉が、天皇は国家の最高機関であって、国家そのものではないという学説を唱えたものです。しかし、軍部や右翼勢力はこれを国体(天皇を中心とする国家体制)の否定であるとして激しく非難し、美濃部達吉は処罰され、天皇機関説は排撃されました。
戦前の日本において、天皇は、建前上は絶大な権限を持つ「統治権の総攬者」でしたが、実際には周囲の政治勢力、特に軍部の影響を強く受ける存在でもありました。天皇の権威は利用され、国家は対外戦争へと突き進む時代を迎えました。

天皇の権威!これまでも歴史の中で、何度も聞いたフレーズです。
シリーズ終わりに:脈々と続く藤原の家名
幕末から明治維新を経て、公家社会は姿を消し、天皇は近代国家の象徴としてその地位を確立しました。そして戦前においては、その権威が国家の支柱として機能する一方で、激動する国内外の情勢の中で、様々な政治勢力の影響下で動き続けました。
この長きにわたる「朝廷と公家社会、その栄枯盛衰の歴史」では、古代から明治維新、そして戦前に至るまで、彼らが日本の歴史に与えた影響を追ってきました。かつて天皇を支え、時には政治を主導するほどの権勢を誇った藤原氏の物語は、日本の政治と文化の根幹に深く関わるものです。
明治維新後、公家としての特権や政治的役割は失われ、華族制度も第二次世界大戦後には廃止されました。しかし、彼らの家系が途絶えたわけではありません。
摂関家として日本の歴史を牽引してきた藤原氏の血筋は、現代にも脈々と受け継がれています。その代表的な存在が、「藤裔会」です。年に一度、氏社である春日大社で集会を行っています。これは、藤原氏の流れを汲む旧公家や武家、あるいは一般の家々が、その伝統と文化を継承するために設立した同族会です。藤裔会は、学術研究や文化活動を通じて、先祖の功績を顕彰し、歴史的資料の保存に努めるなど、藤原氏の歴史と文化を次世代に伝える活動を行っています。
彼らがかつてのような政治的な力を持つことはありませんが、千年以上にわたる家名と伝統は、日本の歴史の深さと連続性を示す一つの例として存在しています。
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