※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

朝廷と公家社会は、王政復古で復権したように見えますが、実際は旧来の伝統、制度が根底から覆され、政治の主導権を握ることはありませんでした。
江戸時代も末期に差し掛かると、260年以上にわたる太平の世は、外国からの圧力と国内政治の矛盾によって大きく揺らぎ始めます。開国を迫る欧米列強の登場は、それまで盤石に見えた徳川幕府の権威を揺るがし、かつて政治の実権を失っていた京都の朝廷が、再び政治の表舞台へと押し出されるきっかけとなりました。
第七章:幕末・明治維新:公武合体と尊王攘夷の激動、そして朝廷の復権?
外国船来航と幕府の動揺:朝廷への「大政委任」の再認識
19世紀に入ると、欧米列強の船舶が日本の近海に頻繁に姿を現すようになります。特に1853年(嘉永6年)のペリー来航は、日本に大きな衝撃を与えました。幕府は、これまで維持してきた鎖国体制を継続することが困難であることを認識し、開国へと舵を切りますが、その過程で大きな判断ミスを犯します。
それは、外交問題という本来であれば幕府の専権事項であったはずの事柄について、朝廷に諮問したことです。これは、幕府が異国との交渉という未曽有の事態に直面し、その対応に自信を持てなかったため、あるいは国内の反発を抑えるために、天皇の権威を利用しようとしたためと考えられます。しかし、この行為は、結果的に「幕府は天皇から政治を委任されているに過ぎない」という、鎌倉時代以来の「大政委任論」を再認識させることになり、朝廷の政治的発言力を高める大きな要因となりました。
一度政治の場に引き戻された朝廷は、開国に反対する攘夷派の公家や、一部の雄藩と結びつき、幕府の政策に異を唱え始めます。
公武合体の試みと挫折:幕府と朝廷のすれ違い
幕府内部でも、開国後の混乱を収拾するため、朝廷の権威と幕府の政治力とを融合させることで、国家の危機を乗り越えようとする動きが起こります。これが「公武合体」運動です。
- 和宮降嫁: 公武合体の象徴的な出来事が、1862年(文久2年)に孝明天皇の妹である和宮が、第14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁したことです。これは、皇室と将軍家の間で血縁関係を結び、両者の関係を強化することで、幕府の権威を回復し、攘夷派の不満を和らげようとする狙いがありました。しかし、和宮降嫁は、尊王攘夷派からは「公武合体は幕府による朝廷の利用に過ぎない」と激しく批判され、かえって反幕府の機運を高める結果となりました。
- 幕政改革への関与: 幕府は、公武合体派の公家や大名(特に薩摩藩など)の意見を取り入れ、幕政改革を試みます。しかし、改革は抜本的なものにはならず、幕府の権威回復には繋がりませんでした。

公武合体運動は、幕府と朝廷が互いの権威と実力を持ちより、日本の危機を乗り越えようとした試みでしたが、結局は失敗に終わりました。
安政の大獄:朝廷・公家への弾圧と尊王攘夷運動の激化
幕末の緊迫した情勢の中、井伊直弼が大老に就任すると、幕府の独断による日米修好通商条約の調印や、将軍継嗣問題での徳川慶福(後の家茂)擁立など、強硬な政治路線を推し進めます。これに反発する朝廷、特に尊王攘夷派の公家や雄藩の動きを抑え込むため、井伊直弼が断行したのが安政の大獄です。
安政の大獄は、幕府に批判的な大名、公家、学者、志士などを広範にわたって処罰した大規模な弾圧であり、朝廷や公家に対しても容赦ない手が加えられました。
- 「戊午の密勅」とその影響: 幕府が朝廷の許可を得ずに条約を調印したことに対し、孝明天皇は激しく憤り、水戸藩に対して「戊午の密勅」を下しました。これは、天皇が幕府を介さずに直接、特定の大名に勅命を下すという異例中の異例の事態であり、幕府の権威を大きく揺るがすものでした。井伊直弼は、この密勅の降下に加わった者たちを、幕府に対する反逆と見なし、厳しく取り締まる方針を採りました。
- 公家への直接的な処罰: 大獄では、密勅降下に関与したとされる複数の公家が処罰の対象となりました。
- 前関白 鷹司政通:隠居・落飾・慎(謹慎)を命じられました。
- 前左大臣 近衛忠熈:辞官・落飾・慎を命じられました。
- 前内大臣 三条実万:隠居・落飾・慎を命じられ、後に病没しました。彼は後に明治維新で活躍する三条実美の父です。
- その他、議奏や武家伝奏といった朝廷の要職にあった公家たちも、謹慎や追放などの処分を受けました。特に、清水寺の僧侶で近衛家と関係の深い月照は、西郷隆盛と共に逃避行中に追い詰められ、入水自殺を図りました(西郷は一命を取り留める)。
- 朝廷の権威と幕府への反発: 安政の大獄は、幕府が天皇の意思表明(密勅)そのものを弾圧対象としたことで、天皇の権威に対する冒涜であると受け止められました。これにより、幕府に対する不信感と反発は、朝廷内だけでなく、全国の尊王攘夷派志士や雄藩の間で決定的に高まりました。幕府の権威は地に落ち、「幕府を倒して天皇を中心とした新しい国を作るべきだ」という倒幕の気運が、公然と語られるようになるきっかけとなりました。

安政の大獄は、幕府が自らの権力を維持するために朝廷にまで直接介入した結果、かえって朝廷の存在感を高めるという皮肉な結果を招いたのです。
時代変化の胎動:尊王攘夷運動の激化と朝廷の政治的台頭
安政の大獄後、尊王攘夷運動はさらに過激化し、幕府の権威を否定し、天皇を中心とした国家体制の再建を目指す動きが加速します。

下級公家と武士の連携、尊王攘夷の激化、そして長州の没落など、朝廷を取り巻く環境は目まぐるしく変化します。
- 志士たちの台頭と下級公家との結びつき: 尊王攘夷を唱える下級武士や浪人(志士)たちは、京都に集まり、朝廷を巻き込んで過激な行動に出ます。彼らは「天誅」と称して幕府要人や外国人を襲撃し、治安を悪化させました。特に長州藩をはじめとする反幕府勢力の志士たちが、京都の朝廷における下級公家と結びついたことは、政治的影響力を高める上で重要でした。これら下級公家の中には、幕府による厳しい統制のもと、冷遇されてきた者も少なくなく、彼らは尊王攘夷思想に共鳴し、政治的活路を見出そうとしました。
- 政治運動の一角を担った学習院: この際、重要な役割を果たしたのが、公家の子弟の教育機関であった学習院(現在の学習院大学の原形)です。学習院は、もともと弘化4年(1847年)に公家の学問所として京都御所の東側に再興され、天皇や公家たちが学ぶ場でした。しかし、幕末の混乱期には、尊王攘夷思想に傾倒する公家や、彼らと連携する各藩の志士たちが集う、いわば政治的サロンのような機能も果たすようになりました。ここで志士たちは、下級公家たちと交流し、天皇への意見上申や、幕府批判の動きを強めていきました。学習院は、単なる教育機関に留まらず、幕末の政治運動における重要な舞台の一つとなったのです。
- 近衛家と薩摩藩の歴史的関係: 幕末の討幕運動のもう一つの大きな原動力となった薩摩藩と朝廷との連携には、長年にわたる近衛家と薩摩藩島津家の深い関係が背景にありました。近衛家は摂関家の中でも特に有力であり、古くから薩摩藩主島津家は近衛家から養子を迎えるなど、血縁を通じた密接な関係を築いていました。 この歴史的繋がりは、幕末期に清水寺の僧侶・月照を介して具体的な政治活動へと繋がります。月照は近衛家の家臣でもあり、尊王攘夷派の公家や志士たちと薩摩藩との間を取り持つ重要な仲介役を務めました。安政の大獄で月照が処罰の対象となった際、西郷隆盛が彼を匿おうとしたことからも、この繋がりがいかに深かったかがうかがえます。 このように、近衛家と薩摩藩の長年にわたる血縁・人的交流は、幕末の複雑な政治状況において、薩摩藩が朝廷、特に尊王攘夷派の公家たちと密接に連携し、討幕運動を進める上で不可欠な原動力の一つとなったのです。
- 八月十八日の政変と七卿落ち、そして禁門の変: 尊王攘夷派の公家や長州藩が朝廷を動かし、幕府に攘夷の実行を迫る動きが強まります。しかし、公武合体派や薩摩藩・会津藩が巻き返しを図り、1863年(文久3年)の八月十八日の政変で、尊王攘夷派の公家や長州藩勢力を京都から追放します。この政変により、尊王攘夷派の中心であった七人の公卿(七卿:三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、澤宣嘉、錦小路頼徳)は長州へ逃れ、「七卿落ち」として知られる事件となりました。これに対し、翌1864年(元治元年)には、長州藩が京都へ攻め上る禁門の変が勃発しますが、薩摩藩らの反撃にあって敗退しました。
これらの事件は、朝廷が幕府とは異なる政治的影響力を持つ存在として、再び脚光を浴びたことを示しています。
大政奉還と王政復古:朝廷の復権と新政府の樹立
禁門の変で敗れた長州藩は、薩摩藩との間で薩長同盟を結び、武力倒幕へと方針を転換します。一方で、幕府は度重なる内乱や外国との不平等条約締結によって権威を失墜させていました。

時代が大きく変わり、武家政権が終焉し、天皇が再び政治の中心になります。
- 大政奉還: 1867年(慶応3年)、第15代将軍徳川慶喜は、天皇に政権を返上する大政奉還を行います。これは、幕府が自らの統治権を天皇に返還することで、新たな政治体制を構築し、徳川家がその中で存続を図ろうとする最後の試みでした。
- 王政復古の大号令: 大政奉還の直後、薩摩藩・長州藩を中心とする討幕派は、1868年(慶応4年/明治元年)に王政復古の大号令を発します。これにより、摂政・関白・将軍職が廃止され、天皇を中心とする新政府の樹立が宣言されました。これは、武家による支配が終わり、天皇が再び政治の中心となることを明確に示したもので、日本の歴史における一大転換点となりました。
王政復古の大号令は、江戸時代を通じて政治の実権を奪われていた朝廷が、名実ともに日本の最高権力機関として復権したことを意味します。この後、戊辰戦争を経て旧幕府勢力を一掃し、新政府は近代国家建設へと邁進していきます。
明治維新で活躍した公家たち
明治維新当初、公家たちは、新政府の要職を占めることになりますが、彼らの多くは近代的な国家運営の知識を持たず、徐々に旧大名出身者や新興勢力にその役割を譲っていくことになります。

王政復古の大号令が発せれても、平安の世のような公家社会は戻ってきませんでした。
そのようなか中でも、岩倉具視や三条実美のように幕末の激動期から明治維新にかけて、政治の表舞台で重要な役割を果たした公家がいます。
- 岩倉具視: 幕末から明治維新にかけて最も有名な公家の一人でしょう。下級公家出身でありながら、公武合体派として和宮降嫁に尽力し、後に尊王攘夷派の公家たちと対立して一時失脚します。しかし、京都岩倉村に幽棲中も多くの志士たちと交流し、薩摩藩の大久保利通らと結んで討幕を画策。王政復古の大号令を主導し、明治新政府では右大臣などの要職を歴任、岩倉使節団を率いて欧米を視察するなど、近代日本の建設に多大な貢献をしました。
- 三条実美: 幕末の尊王攘夷派公家の中心人物であり、七卿落ちで長州に逃れたことでも知られます。明治新政府では太政大臣に就任し、初期の政府運営を担いました。彼の存在は、旧来の公家が新政府の中核を占めたことを象徴しています。
- 徳大寺実則: 三条実美と同様、七卿の一人として長州に逃れた公家です。明治新政府では、議定、元老院議官、宮内大臣などを歴任し、宮中と政府の間の重要な役割を果たしました。
- 東久世通禧: 禁門の変後に処罰され、七卿に準じる形で長州へ落ち延びた公家の一人です。明治新政府では参与、外務卿などを務め、外交面でも活躍しました。
- 正親町三条実愛: 幕末に朝廷内で薩摩藩や長州藩と巧みに連携し、政治的なバランス感覚に長けていたと評される公家です。彼の動向は、複雑な公武関係の中で公家がいかに立ち回ったかを示す好例です。
明治維新後の公家社会の変容
明治維新は、公家社会にとっても大きな転換点となりました。

日本国の制度が根底から覆されることになり、それは公家社会の在り方にも及びました。
- 華族制度の創設: 新政府は、旧公家と旧大名家を統合し、新たに華族という特権階級を創設しました。これにより、旧公家たちは爵位(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)を与えられ、経済的にも一定の保障を受けました。しかし、これは彼らが政治の実権から遠ざけられることを意味し、近代国家建設の主導権は、より実務能力に長けた下級武士出身者に委ねられることになります。
- 東京奠都: 天皇が江戸(東京)へ移り住み、東京が日本の首都となる東京奠都は、公家たちが長年生活の拠点としてきた京都が、政治の中心としての地位を完全に失ったことを意味しました。多くの公家は、天皇に従って東京へ移住しましたが、一部は京都に残る選択をしました。
- 旧態依然とした公家文化の消滅: 新しい時代の中で、公家たちが培ってきた有職故実や古典研究といった文化は、その専門性を維持しつつも、かつての社会的影響力は失われていきました。彼らは、新政府の官僚や学者、あるいは海外留学を通じて新たな知識を身につけ、近代社会に適応していくことを求められました。
- 華族の教育機関としての学習院: 幕末期に政治的拠点の一つとなった学習院は、明治維新後、その性格を大きく変えて存続します。明治政府は、華族の子弟のための教育機関として学習院を位置づけ、皇族や旧公家、旧大名などの上流階級の子女が学ぶ場となりました。
幕末から明治維新にかけての公家社会は、外国からの圧力と国内の政治的混乱の中で、その存在意義を大きく変えていきました。一度は政治の蚊帳の外に置かれながらも、天皇という「権威」を擁することで、再び日本の政治の中心へと返り咲いた朝廷。しかし、その復権は、彼らが長年培ってきた旧来の伝統や文化からの脱却を迫られる、新たな試練の始まりでもありました。
この激動の時代を経て、日本の朝廷は、明治憲法下の「立憲君主制」における象徴としての天皇へと、その姿を大きく変貌させていくことになります。次章では、近代国家として歩み始めた日本において、天皇と皇室がどのように位置づけられ、国民統合の象徴としての役割を担っていくのかを見ていきましょう
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