朝廷と公家社会|その栄枯盛衰の歴史(第5回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
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応仁の乱で朝廷の政治力と経済力が崩壊し、朝廷は信長や秀吉によって天下統一の権威付けに利用されるようになりました。

応仁の乱によって、京都は荒廃し、室町幕府の権威は地に堕ちました。日本は全国各地で大名たちが覇を競い合う、まさに「下克上」の戦国時代へと突入します。この未曽有の混乱期において、政治的・経済的基盤を失い、かつての栄華を失った公家社会は、どのように生き残り、新たな時代の権力者と向き合っていったのでしょうか。

第五章:戦国・安土桃山時代:公家社会の苦難と新たな秩序

応仁の乱後の公家の惨状と地方への分散

応仁の乱(1467-1477年)は、京都を主戦場とし、約10年間にわたって繰り広げられた大乱でした。京都の市街地は徹底的に破壊され、皇居である御所や公家たちの邸宅、寺社仏閣の多くが焼失しました。この戦乱は、ただ都を破壊しただけでなく、公家社会に壊滅的な打撃を与えました。

案内者
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この時代の朝廷や公家は、政治的・経済的な力はなく、昔ながらの「権威の象徴」と「文化の担い手」となっていました。

  • 経済基盤の崩壊: 公家たちの収入源であった荘園は、戦国大名や地侍たちによって恣意的に収奪されるようになり、年貢の徴収はほぼ不可能となりました。多くの公家は経済的に困窮し、日々の生活すらままならない状況に陥ります。
  • 文化財の散逸: 公家たちが代々継承してきた貴重な文書、記録、美術品なども、戦火によって焼失したり、盗難に遭ったりして散逸しました。
  • 都からの離散: 生活の糧を失い、身の危険を感じた多くの公家は、京都を離れて地方の大名や寺社を頼って流浪せざるを得なくなりました。彼らは、地方で家伝の学問や技芸を教えることで糊口をしのぐか、あるいは大名の庇護を受け、外交や文化面で貢献する道を選びました。これは、公家社会が長らく享受してきた都中心の生活が崩壊したことを意味します。

戦乱に翻弄されながら文化を守った公家:三条西実隆

応仁の乱後の公家の悲惨な状況を象徴する人物として、三条西実隆の名が挙げられます。彼は、室町時代後期の歌人、古典学者として知られ、和歌や有職故実(朝廷や公家の典礼・制度・習慣)の第一人者でした。応仁の乱が勃発すると、京都での生活が不可能となり、実隆は故郷の山口(周防の大内氏の領地)や堺などを転々とせざるを得ませんでした。

流浪の身となっても、実隆は決して学問や文化への情熱を失いませんでした。彼は、各地で大名や商人、寺社の求めに応じて、和歌や連歌の指導を行い、貴重な古典籍の書写・校訂に尽力しました。特に、彼の日記である『実隆日記』は、戦国時代の公家社会の様子を伝える貴重な史料となっています。

激動の時代を生き抜いた異色の公家:近衛前久の挑戦

このような公家社会の苦難の中で、際立った行動力を見せた異色の人物がいます。それが近衛前久です。摂関家である近衛家の当主として、彼は従来の公家の枠に収まらない、大胆な行動によって戦国乱世を生き抜きました。

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軟弱なイメージのある公家ですが、近衛前久は上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉と渡り合い、乱れた世を立て直そうとした気骨のある公家です。乱世がこのような公家も担当させました。

  • 越後への下向と外交活動: 応仁の乱による京都の荒廃と、公家社会の困窮に危機感を抱いた前久は、なんと都を離れ、越後の戦国大名である上杉謙信のもとへ身を寄せました。これは、当時の公家としては考えられない大胆な行動です。前久は、謙信の関東管領就任を朝廷から認めるという外交交渉を行うなど、京都を離れてもなお、公家としての権威と人脈を活かして、地方の有力大名間で政治的影響力を行使しようとしました。
  • 信長との協調: その後、上杉家を離れて各地を転々とした後、天下統一を進める織田信長と接近します。前久は信長に官位を授与する際の仲介役を務めるなど、両者の関係構築に深く関与しました。信長の京都御馬揃や甲州征伐に参加しています。
  • 秀吉との対立と融和: 信長亡き後、豊臣秀吉が天下を掌握すると、前久は秀吉の関白就任を巡って一時的に対立しました。秀吉は藤原氏の家格を得て関白になろうとしましたが、これは摂関家の伝統を重んじる前久にとっては受け入れがたいものでした。しかし、最終的には秀吉の圧倒的な力の前には抗えず、前久は秀吉の関白就任を容認します。その後も、前久は秀吉の政治顧問的な役割を果たすなど、公家として生き残るために新たな権力者との関係を構築し続けました。

近衛前久の生涯は、戦国時代の公家が、いかに能動的に、そして時にはなりふり構わず、自らの地位と家門の存続を図ったかを示す好例です。彼は、伝統的な権威と、激動の現実世界における政治的駆け引きの両方を理解し、活用することで、他の多くの公家が困窮していく中で、稀有な存在感を示しました。

織田信長と朝廷:権威の利用と伝統への挑戦

戦国時代末期、尾張の織田信長が台頭し、天下統一への道を歩み始めます。信長は、既存の権威を徹底的に利用し、あるいは排除するという非常に合理的な政治感覚を持っていました。彼の朝廷に対する態度は、単なる尊重にとどまらず、伝統的な権威に挑戦しようとした側面も持ち合わせていました。

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室町幕府を滅ぼした信長は、「室町幕府の保護者」から「朝廷の保護者」に変貌することで、天下統一の正当性を確立していきました。

信長は、室町幕府の最後の将軍である足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させましたが、一方で朝廷、すなわち天皇と公家に対しては、一定の保護政策を取りました。

  • 御所の修築と財政支援: 荒廃していた京都の御所を修築し、天皇や公家たちの生活を支援するために、財政的な援助を行いました。これは、信長が天皇の権威を自らの天下統一の正当化に利用しようとした側面が強いと考えられます。彼が朝廷から官位を望んだことも、武力による支配を正統化するための手段でした。
  • 伝統行事の再興: 中断されていた朝廷の伝統行事(大嘗祭など)の再興にも協力しました。これもまた、朝廷の権威を回復させることで、信長自身の支配体制を権威付ける狙いがあったとされます。

一方で、信長は朝廷の伝統的な権威や慣習に対して、自身の合理主義に基づく挑戦を試みました。その最も有名な例が、改暦問題です。当時の日本で使われていた暦(宣明暦)は、すでに実際の天体運行とずれが生じており、信長はこれを是正するため、より正確な暦への改定を朝廷に求めました。しかし、改暦は天皇の権威に深く関わる神聖な行為とされ、朝廷は容易にこれを認めようとしませんでした。信長は、この朝廷の保守的な姿勢に対して、時には強硬な態度で臨んだとされます。この改暦問題は、信長が単に天皇の権威を利用するだけでなく、非合理的な旧弊を排除し、実利を重んじる自身の思想を朝廷にまで及ぼそうとした試みであり、伝統的権威への挑戦という側面を示しています。

さらに、足利義昭追放後、室町幕府という武家政権の枠組みが失われた中で、朝廷は信長をその体制内に取り込もうとしました。当時、信長は朝廷から与えられた右近衛大将などの官位を辞任しており、いわば「無冠」の状態でした。しかし、朝廷は、信長が新たな天下人として国家を統べる存在であると認識し、秩序を安定させるため、彼を律令制や天皇制の枠組みに収めようと試みます。

実際に、信長に対しては征夷大将軍や太政大臣、あるいは関白といった朝廷の最高位の官職への就任が打診されたことが記録に残っています。特に1582年(天正10年)には、武田氏を滅ぼして天下統一が目前に迫った信長に対し、朝廷はこれら「三職」のいずれかへの任官を推挙しています。しかし、信長はこれらの要請に対して明確な返答を避けるか、あるいは辞退しました。

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朝廷や公家は、信長が天皇や朝廷の権威を超えた新たな秩序をつくることを恐れ、高位に任官することで取り込もうとしましたが、信長は受けませんでした。

このように、信長は天皇の権威を自らの支配の正統化に利用しつつも、同時に、その権威が内包する旧弊や慣習には強く反発し、自らが考える合理的な政治体制の実現のために、朝廷の伝統的な枠組みをも超越しようとした人物であったと言えるでしょう。彼は、既存の制度に縛られることなく、自身の力と理念によって新たな国家秩序を創造しようと試みた、まさに戦国乱世が生んだ異能の統治者でした。

豊臣秀吉と朝廷:官位の利用と公家社会の再編

織田信長の後を継ぎ、天下統一を完成させた豊臣秀吉は、信長以上に朝廷の権威を自らの支配に取り込むことに腐心しました。

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秀吉は、織田家を追い落として天下人になったため、初めは朝廷を取り込むことで、自らの正当性を高めました。

秀吉は、自らが「天下人」であることを公的に示すため、朝廷の権威を積極的に利用しました。

  • 武家官位からの転換と関白就任: 秀吉は、当初、武家の棟梁としての最高位である征夷大将軍の任官を望み、そのために旧室町将軍家である足利氏との血縁関係を求め、足利義昭の猶子(養子)になろうと画策しました。しかし、これは義昭側に拒否され、実現しませんでした。そこで秀吉は方針を転換し、武家の地位にとらわれず、公家の最高位に就くことで天下人としての正統性を確立しようとします。彼は、摂関家である近衛家の猶子となることで藤原氏の家格を得て、1585年(天正13年)には関白、翌年には太政大臣に就任しました。これは、武士の身分から公家の最高位にまで昇り詰めるという、異例中の異例の出世でした。彼は、征夷大将軍の地位にこだわることなく、公家の最高位を得ることで、自らの支配を権威付けようとしたのです。
  • 聚楽第行幸: 1587年(天正15年)には、京都に築いた自身の居城である聚楽第に後陽成天皇を招き、盛大な行幸を行いました。これは、天皇を自らの本拠地に迎えることで、豊臣政権の権威を内外に示し、かつての藤原摂関家のような絶対的支配者としての地位を印象付けるものでした。
  • 公家領の再編と統制: 秀吉は、戦乱で困窮した公家たちの所領を一部回復させ、公家たちの生活を安定させようと試みました。しかし、これは公家に対する恩恵であると同時に、幕府の統制下に置くことを意図したものでもありました。公家たちは秀吉からの恩給に依存せざるを得なくなり、その独立性は一層失われていきました。

秀吉の時代、公家たちは再び京都に集まり始め、天皇の権威を補完する役割を与えられましたが、彼らが政治の実権を握ることはなく、武家政権の管理下に置かれる存在となりました。これは、かつての摂関政治とは全く異なる、武家主導の権威利用の形でした。

新たな秩序の中での公家の役割

戦国・安土桃山時代を通じて、公家社会は政治的実権を完全に失い、経済的にも困窮を極めました。しかし、朝廷は天皇という「権威」の象徴を擁し、古来の伝統や文化を継承する役割を果たすことで、辛うじてその存在を維持しました

  • 伝統文化の伝承: 都を離れた公家の中には、地方大名の下で歌道、蹴鞠、有職故実などの伝統文化を伝え、その知識や技能を以て生き抜く者もいました。彼らは、戦乱の時代にあっても、日本の古典文化の灯を守り続けたのです。
  • 外交・儀礼における役割: 新たな権力者たちは、朝廷の権威を借りて、外交や重要な儀礼を執り行う必要がありました。公家たちは、そうした儀礼の知識や作法、あるいは漢文の素養を活かし、武家政権の外交や儀礼を支える存在となっていきました。
  • 学問・文学の継続: 京都に戻った公家たちも、政治に直接関わることは少なくなり、和歌や漢詩、歴史研究などの学問や文学に専念する者が増えました。彼らの活動は、公家文化の命脈を保ち、後の江戸時代の文化にも影響を与えました。

この時代は、公家が政治の表舞台から完全に退き、その役割が大きく限定された時期でした。しかし、彼らは天皇の権威と伝統文化の担い手として、その存在意義を武家社会の中に再定義し、来るべき江戸時代の安定期へと繋がっていくことになります。

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