朝廷と公家社会|その栄枯盛衰の歴史(第2回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
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公家と言ったら藤原氏。藤原氏がどのように権力を手中にしていったのか、歴史を追って紹介していきます

奈良時代に律令国家としての骨格を整えた日本は、次の平安時代において、文化と政治の大きな変貌を遂げます。約400年という長きにわたり、朝廷の中心が平安京に置かれ、藤原氏が絶大な権力を握ることで、摂関政治という独特の政治体制が確立されていきました。この章では、その華やかな時代と、その裏に隠された権力闘争の様相を深掘りしていきます。

第二章:平安時代:藤原氏の栄華と摂関政治の確立

平安遷都と貴族文化の開花

794年、桓武天皇によって都が平安京(現在の京都)に遷されました。これは、前時代の奈良仏教勢力の政治介入を避け、新たな中央集権体制を再構築しようとする天皇の強い意志の表れでした。平安京は、中国の洛陽にならって碁盤の目状に整備された壮麗な都市であり、これ以降、日本の政治・文化の中心として、幕末に至るまでおよそ1000年もの間、その地位を保ちます。

平安遷都は、都に住んだ貴族たち(公家)に、独自の文化を育む土壌を与えました。彼らは地方への下向が少なくなり、中央で政治を行う傍ら、次第に洗練された貴族文化を花開かせます。当初は漢詩文や仏教といった大陸文化の影響が色濃かったものの、やがて日本の風土や感性に合った国風文化へと昇華していきました。仮名文字の発達はその象徴であり、和歌や物語文学といった日本独自の文学が生まれた背景には、平安貴族の繊細な美意識と雅な生活がありました。

藤原四家と藤原氏の勢力拡大の始まり

藤原氏の繁栄の礎を築いたのは、大化の改新で功績を挙げた藤原鎌足の子、藤原不比等です。彼は律令制の確立に尽力し、娘を天皇の妃にするなど、早くから皇室との外戚関係を築くことに力を入れました。この戦略が、後の藤原氏による政権独占の鍵となります。

不比等には四人の息子がおり、彼らそれぞれが独立した家を興したことから、藤原四家と呼ばれます。長男の武智麻呂からは南家が、次男の房前からは北家が、三男の宇合からは式家が、そして四男の麻呂からは京家が成立しました。

この四家は、それぞれが政治の中枢に進出し、権力闘争を繰り広げながらも、互いに協力したり対立したりすることで、藤原氏全体の勢力を拡大していきました。彼らは、天皇の外戚となることを重視する不比等の戦略を受け継ぎ、他氏を排斥しながら政界での優位を確立しようとします。例えば、729年の長屋王の変では、藤原四兄弟が長屋王を自殺に追い込み、その政治的影響力を削ぎました。

しかし、737年には藤原四兄弟が相次いで天然痘で亡くなるという未曽有の事態が発生し、藤原氏の勢力は一時的に大きく後退します。

藤原四家のその後の明暗

少し先走った説明になりますが、この天然痘による壊滅的な打撃の後、藤原四家の命運は大きく分かれることになります。

案内者
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藤原氏を代表する「冬嗣」「良房」「道長」「頼道」などは、みな藤原北家です。

  • 南家・式家・京家の衰退: 南家、式家、京家は、この疫病による中心人物の死やその後の政変で、政治の中枢から次第に遠ざかっていきました。例えば、南家は「藤原仲麻呂の乱」で、式家は「藤原博嗣の乱」で落ちぶれていきます。もちろん、これらの家系が完全に途絶えたわけではありません。彼らは、特定の学問や技芸、あるいは地方の官職を世襲する家系として、公家社会の一員としては存続していきましたが、中央政治の表舞台からは退いていったのです。
  • 藤原北家の台頭と摂関家への道: 一方で、最も早くに要職に就いていた藤原房前を祖とする北家は、この危機を乗り越え、平安時代を通じて圧倒的な勢力を築き上げます。その最大の要因は、天皇の外戚となる婚姻戦略を最も成功させたことにあります。他の三家が政争や疫病で弱体化する中、北家は娘を天皇の后として送り込み続け、生まれた皇子を次の天皇とするサイクルを確立しました。この戦略によって、北家は摂政・関白という要職を世襲し、文字通り朝廷の最高権力を掌握するに至るのです。

このように、藤原四家は当初、互いに競い合いながら勢力を拡大しましたが、結果的には政治的な手腕と、何よりも天皇との外戚関係を確保する戦略に長けた北家のみが、圧倒的な権勢を誇る「摂関家」へと発展していきました。

藤原氏のライバルたちとの攻防:権力確立の舞台裏

話を藤原四家の時代に戻します。藤原氏が朝廷の権力を独占していく過程は、決して平坦な道のりではありませんでした。彼らは、天皇親政を目指す天皇や、他の有力な貴族、さらには仏教勢力といった様々なライバルとの熾烈な権力闘争を繰り広げながら、その地位を確立していったのです。

橘諸兄との対立

奈良時代の権力均衡への挑戦 藤原四兄弟の死後、政界に生じた空白を縫うようにして頭角を現したのが、皇族出身の臣下である橘諸兄です。聖武天皇の信任を得た彼は、吉備真備や玄昉といった学識豊かな人材を登用し、藤原氏に依存しない政治体制を築こうとしました。一時は太政大臣として政権を主導し、藤原氏の勢力に対抗する存在として、律令国家の理想的な姿を追求しようと試みます。しかし、南家の藤原武智麻呂の子である仲麻呂が、皇族の光明皇后(聖武天皇の皇后で不比等の娘)のバックアップを得て力をつけると、諸兄は次第に孤立し、最終的には失脚に追い込まれます。

しかし、仲麻呂はその後、孝謙上皇と道鏡の勢力に押され、最終的に乱を起こして処刑されます。これにより南家は衰退します。

道鏡との対立:皇位継承を巡る危機

藤原仲麻呂の失脚後、次に政治の実権を握ったのが、孝謙上皇の寵愛を受けた僧侶、道鏡です。道鏡は、孝謙上皇の絶大な信任を得て「法王」の称号を受け、ついには皇位を望むかのような動きを見せます。これは、天皇の血統による皇位継承という日本の伝統的な慣習を脅かす未曽有の危機であり、藤原氏をはじめとする伝統的な貴族層は強く反発しました。特に、和気清麻呂による宇佐八幡宮神託事件は、道鏡の皇位継承の野望を挫く決定打となります。道鏡の失脚は、皇位の神聖性を守り抜いた結果として、結果的に藤原氏が再び政治の主導権を握る大きな契機となりました。

この事件を通じて、藤原氏は自らが天皇家の守護者としての役割を果たすことで、その権力をさらに強化していった側面もあります。

人臣初の摂政、藤原良房と摂関政治の萌芽

試練を乗り越え、藤原北家がその勢力を本格的に拡大し、摂関政治への道を切り拓いたのは、9世紀の藤原良房の時代です。良房は、天皇の信任を得て権勢を強め、まず娘の明子を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)を皇位に就けました。 そして、858年、清和天皇が幼少で即位すると、良房は人臣(皇族以外の臣下)として初めて摂政に任命されます。

良房は、その卓越した政治手腕によって、朝廷内外の反藤原勢力を排斥し、甥である藤原基経と共に、摂政・関白の地位を藤原北家の世襲とする道を確立していきました。良房の摂政就任は、天皇中心の律令政治から、天皇を外戚として支える藤原氏が実権を握る摂関政治へと移行する決定的な一歩となったのです。

案内者
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皇族にしか許されなかった摂政という大役を、藤原氏が手に入れたという点で、日本の政治史上画期的な出来事です。

菅原道真との対立。藤原氏による最終的な権力独占

良房・基経の時代を経て、藤原北家による摂関政治は確立に向かいますが、その道を阻もうとする最後の大きな壁が現れます。それが、卓越した学識と実務能力を持つ菅原道真です。 宇多天皇は、藤原氏の権勢を抑え、天皇中心の政治を取り戻そうと、非藤原氏である道真を重用しました。道真は、学者の家系という低い身分ながら異例の出世を遂げ、寛平の治と呼ばれる善政を支え、遂には右大臣にまで昇り詰めます。

菅原道真は遣唐使の廃止を建議するなど、国政の重要課題にも深く関与しました。 しかし、道真の急速な昇進は、藤原氏、特に当時の権力者であった藤原時平の強い反発を招きます。時平は道真を「天皇を欺き、謀反を企んでいる」と讒言し、901年、道真は大宰府に左遷されてしまいます。道真は翌々年に失意のうちに亡くなりますが、彼の失脚は、藤原氏の権力独占を最終的に決定づける出来事となりました。この後、藤原氏に対抗しうる有力な公家は現れなくなり、摂関政治は揺るぎない体制として完成へと向かうのです。

藤原北家の隆盛と摂関政治の完成:権力の独占者たち

多くの試練を乗り越え、藤原北家は揺るぎない権力を確立しました。その最盛期を築いたのが、藤原道長とその子頼通です。道長は「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだとされるように、その権勢は絶頂に達しました。藤原道長の娘である彰子、妍子、威子がそれぞれ太皇太后、皇太后、中宮という三后となり、まさに「一家三后」という前例のない栄華を誇りました。頼通の時代には、平等院鳳凰堂が建立されるなど、藤原氏の財力と文化的な影響力は極みに達します。

摂関政治は、律令制が理想とした天皇中心の政治を大きく変質させました。本来、天皇に集中していた権限は、摂政や関白を介して藤原氏に移り、天皇は次第に儀礼的な存在となっていきます。しかし、この体制は、天皇の権威を損なわずに、藤原氏が実質的な統治を行うという、独特の安定をもたらした側面もありました。

案内者
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私見ですが、『君臨すれど統治せず』という現在の象徴天皇制は、この時代から繋がっているようです。

藤原氏の権勢を象徴する寺社仏閣:信仰と権力の具現化

藤原氏がその絶大な権力を確立していく過程で、彼らは政治だけでなく、宗教や文化の分野においても大きな影響力を行使しました。特に、一族の繁栄と鎮護を願って建立された数々の寺社仏閣は、藤原氏の権勢と信仰、そして当時の社会の精神性を今に伝える貴重な遺産となっています。

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有名な興福寺や春日大社は、藤原氏の氏寺、氏社で、言い換えれば、藤原氏のためのお寺・神社です。

  • 藤原氏の氏寺・興福寺:奈良にある興福寺は、藤原氏の氏寺として、その歴史と共に歩んできました。その起源は、藤原氏の祖である藤原鎌足の妻、鏡大君が夫の病気平癒を願って建立した山階寺に遡ります。後に鎌足の子である藤原不比等によって平城京の現在の場所に移され、藤原氏の氏寺として発展を遂げました。 興福寺は、藤原氏の庇護のもと、広大な敷地と多数の伽藍を持つ大寺院となり、南都七大寺の一つに数えられるほどの勢力を誇りました。
  • 藤原氏の氏社・春日大社: 興福寺のすぐそばに位置する春日大社は、768年に藤原氏の氏神を祀るために、藤原不比等の孫にあたる藤原永手が創建しました。藤原氏の氏社として、興福寺と並び、一族の繁栄と国家の安泰を祈願する重要な存在でした。
  • 藤原氏の極楽浄土・平等院:平安後期、藤原摂関政治の最盛期を象徴するのが、京都府宇治市にある平等院です。もともとは藤原道長が自身の別荘として築いたものを、その子である藤原頼通が、1052年(永承7年)に寺院に改めました。 翌年に建立された鳳凰堂は、極楽浄土を現世に再現しようとした建築として知られます。平等院はまさに藤原氏が享受した富と権力、そして来世への切なる願いを如実に物語るものでした。その壮麗な美しさは、藤原氏の絶大な権勢と、彼らが追求した美意識の頂点を今に伝えています。

王朝文学に見る公家社会

大河ドラマの「光る君へ」でも注目されましたが、平安時代の公家社会の様子を最も鮮やかに伝えてくれるのが、この時代に花開いた王朝文学です。紫式部が著した『源氏物語』は、光源氏という理想の貴公子を中心に、当時の貴族たちの恋愛、結婚、出世、そして人生の苦悩までを克明に描き出しています。この物語は、単なるフィクションにとどまらず、宮中の儀式や有職故実が詳細に描写されており、当時の公家社会の規範や美意識を知る上で貴重な資料となっています。

清少納言の『枕草子』は、風情や趣といった美意識に基づき、宮中の出来事や四季の移ろい、人々の様子を生き生きと描いた随筆です。ここでは、公家たちの洗練された感性や、知的な遊び、そして宮廷における人間関係の機微がユーモラスに、あるいは鋭く記されています。

これらの文学作品からは、公家たちが身分や家柄を重んじ、和歌や管弦、香合わせなどに興じながら、一方で権力争いや人間関係の複雑さに悩まされる姿が浮かび上がってきます。彼らは、自らの教養や美意識を磨くことを重視し、それがそのまま社会的な評価に繋がる、独特の価値観を持つ人々だったと言えるでしょう。


平安時代は、藤原氏が権力を掌握し、公家社会がその頂点を極めた時代でした。しかし、この摂関政治の安定の陰では、やがて来るべき大きな変化の兆候も潜んでいました。地方では武士団が力をつけ始め、中央の政治からも、新たな動きが生まれつつあったのです。次の章では、その変化の波に焦点を当てていきます。

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