朝廷と公家社会|その栄枯盛衰の歴史(第1回)

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※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、誤りなどはコメントいただけると幸いです。

案内者
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朝廷がどのように誕生し、武士が台頭する中で衰退し、明治維新を経てどうなったのか、約1500年にわたる変遷を追っていきます。

はじめに

この記事では、日本の成り立ちから現代に至るまで、約1500年以上にわたる朝廷と公家の変遷を紐解いていきます。天皇を中心とした朝廷がどのようにして権力を確立し、そしてその権力が藤原氏を筆頭とする公家へと移り変わっていったのか。武士の台頭によって朝廷が失墜し、権威のみを残す存在となっていった過程。そして、近代以降、彼らがどのようにして社会に再編され、現代に至っているのか――。この長い物語を、歴史の深みに分け入りながら、探求していきます。

特に注目したいのは、公家社会の複雑な構造です。公家と一言で言っても、その中には厳格な家格の序列がありました。頂点に立つのが五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)と呼ばれる家々で、彼らは摂政や関白といった最高位の職を独占しました。次いで、太政大臣や左大臣、右大臣などの要職に就くことができたのが清華家です。さらに、大臣を家格の極限とする大臣家、大将・中将に至る羽林家、公卿になれるが大将にはなれない名家など、細分化された序列が存在しました。これらの家格は、単なる身分を示すだけでなく、それぞれの家が担うべき役割や、就任できる官職を厳しく規定していました。こうした公家社会のルールを知ることは、彼らの興亡や、武家との関係性を理解する上で不可欠な視点となるでしょう。


第一章:律令制下の朝廷と公家の萌芽

日本の古代史を語る上で、ヤマト王権の成立と発展は避けて通れません。これは、後の朝廷の原型となる支配体制が形成されていく過程です。

大化の改新以前の政治体制:氏姓制度とヤマト王権

ヤマト王権が日本列島の中央集権的な支配を確立していく以前、社会の基盤となっていたのは氏姓制度でした。これは、血縁を基盤とした「氏(うじ)」と呼ばれる集団(豪族)で、蘇我氏、物部氏、大伴氏などで、氏族をもとに各地を支配しました。一方、「姓(かばね)」という称号をヤマト王権から与えられ、その地位や職掌が決められていた制度です。例えば、「臣(おみ)」や「連(むらじ)」といった姓を持つ氏族は、それぞれ地方の豪族や特定の職業集団を率い、ヤマト王権に対して奉仕を行っていました。氏姓制度のもとでは、土地や人々はそれぞれの氏族に属し、王権の直接的な支配は限定的でした。

案内者
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ヤマト王朝時代は、現在われわれがイメージする公家社会とは異なり、氏を中心とした豪族たちの時代です。

しかし、当時の国際情勢、特に朝鮮半島の動乱や中国の隋・唐といった大帝国の出現は、ヤマト王権に大きな危機感をもたらします。より強力な国家体制を築き、外部からの脅威に対抗する必要性が高まっていったのです。これが、中央集権国家を目指す大きな原動力となりました。

大化の改新と中央集権国家への道:藤原鎌足の野望

こうした背景の中、中大兄皇子と、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が中心となって、一大政治改革を断行します。それが大化の改新(645年)です。この改革の最大の目的は、氏姓制度を解体し、天皇を中心とした律令(法律と制度)に基づく中央集権国家を築くことでした。

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大化の改新の柱は①公地公民、②地方行政区画の整備、③戸籍・口分田の整備、③租庸調の税制確立です。

大化の改新で掲げられた「改新の詔」は、大きく四つの柱から成り立っていました。まず、土地と人民の公地公民化。これは、私有地・私有民を廃止し、すべての土地と人民を国家(天皇)の直接支配下に置くという画期的なものでした。次に、地方行政区画の整備。国・郡・里という行政単位を設け、中央から官僚を派遣して統治する体制を整えました。さらに、班田収授法の導入。戸籍を作成し、人民に口分田を支給する代わりに租税を徴収するという、後の律令制の中核となる税制改革が行われました。最後に、租庸調の税制確立。土地の生産物(租)、労役(庸)、特産物(調)を納めさせることで、国家財政の安定を図りました。

この改革の立役者の一人である中臣鎌足は、大化の改新を主導することで、中臣氏から藤原氏へと姓を改め、以降の藤原氏繁栄の礎を築きました。彼は、天皇の側近として政治の中枢に深く関与し、氏姓制度下の旧来の権力構造を打破し、新しい国家体制の構築に尽力したのです。大化の改新は、後の律令国家、そして公家社会が形成されるための、まさに原点となる変革でした。

奈良時代:天皇中心の政治と公家の形成

大化の改新を経て、701年には本格的な律令である大宝律令が施行され、日本は律令国家として確立されます。この時代、政治の中心は平城京(現在の奈良)に置かれ、天皇を中心とする中央集権体制が機能していました。

律令制のもとでは、官職に応じて位階が与えられる制度官位相当制が導入され、官僚たちが国家運営を担いました。彼らは世襲的な氏族から選ばれることが多かったですが、その身分は天皇から与えられた官職によって規定され、公的な存在としての「公家」の原型がここに形成されていきます。しかし、この時代の公家は、まだ政治権力を独占する存在ではありませんでした。

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この時代の公家は、天皇の意向を受けて実務を担う官僚集団としての性格が強かったと言えます。

一方で、土地制度においては荘園の形成が進み始めます。律令制の根幹である公地公民制は、墾田永年私財法などの例外規定によって少しずつ揺らぎ始め、有力な貴族や寺社が土地を集積する動きが活発になります。これは後の時代の公家社会の経済基盤となり、また武士の台頭にも繋がる伏線ともなります。

奈良時代はまた、天平文化という華やかな国際色豊かな文化が花開いた時代でもあります。遣唐使によってもたらされた大陸文化が仏教を中心に日本社会に深く根付き、東大寺の大仏建立に象徴されるように、国家的な事業として文化が発展しました。公家たちはこうした文化の担い手となり、後の王朝文化の基礎を築くことになります。

この時代の朝廷は、天皇が直接政治を主導する「親政」が原則であり、公家は天皇を支える役割に徹していました。しかし、律令制の綻びや、皇族内の権力争い、そして藤原氏の台頭など、後の時代へと続く変化の兆しが既に現れ始めていたのです。

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