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武士の台頭により、貴族や公家の荘園が簒奪され、武士の時代が到来します。
第四章:武士の時代と土地所有の変容
前章では、荘園制の確立が律令国家の土地支配を弱体化させる一方で、地方に新たな支配者層、すなわち武士を台頭させたことを紹介しました。この章では、武士が日本の政治の中心へと躍り出たことで、土地所有のあり方がどのように変革されたのかを詳しく見ていきます。武士の土地への強い執着が、鎌倉幕府の成立と、その後の荘園支配に与えた決定的な影響、そして室町時代へと続く土地所有の変容に焦点を当てます。
1. 鎌倉幕府の成立と関東武士の土地所有願望
12世紀後半、地方で力を蓄えていた武士団が、中央の政治に深く関与するようになります。特に、東国(関東地方)の武士たちは、古くからの開墾地を基盤とし、自らの所領に対する強い執着を持っていました。彼らにとって、土地は単なる経済基盤ではなく、先祖代々受け継がれてきた「家」の存立基盤であり、一族の絆を象徴するものでした。しかし、荘園と公領が混在する当時の土地制度では、国司や荘園領主の権力が依然として強く、彼らの土地所有権は常に不安定な状態にありました。
そのような中で、源頼朝が挙兵し、各地の武士たちが彼の元に集結したのは、単なる源氏再興の旗印だけではありませんでした。頼朝は、合流する武士たちに対して、彼らの既存の本領を安堵すること(本領安堵)を約束し、さらに功績に応じて新たな土地を与えること(新恩給与)を確約しました。これは、武士たちが長年抱いてきた、自分たちの土地に対する安堵と拡大の願望を直接的に満たすものであり、彼らが頼朝に命を捧げて従う最大の動機となりました。

源頼朝は伊豆に流されたことで、武士たちの土地所有に対する渇望を理解し、それを実現することで武士たちの強い支持を得て鎌倉幕府を樹立することが出来ました。
1185年、源頼朝は、各地に守護と地頭を設置する権利を朝廷から認められます。これにより、頼朝が率いる鎌倉幕府は、武力だけでなく、土地と人民に対する公的な支配権を獲得し、その権力基盤を磐石なものとしました。特に地頭の設置は、これまでの土地制度に大きな変革をもたらすことになります。
2. 地頭による荘園の侵略と承久の変
地頭は、鎌倉幕府が地方に設置した、御家人(将軍に仕える武士)の役職です。彼らの主な任務は、反幕府勢力の鎮圧、大番役(京都の警護)の催促、そして荘園や公領からの年貢徴収でした。当初、地頭の権限は限定的でしたが、彼らは自らの利益を最大化するため、次第に荘園領主の権限を侵食し始めます。
地頭は、荘園の年貢米から一定量を自らの収入として徴収する権利(地頭給)を持っていました。しかし、彼らはしばしば、必要以上の年貢を徴収したり、勝手に土地を耕作させたり、あるいは農民を自らの支配下に置こうとするなど、露骨な横領を行いました。荘園領主たちは、こうした地頭の不法行為に苦しめられ、幕府や朝廷に訴え出るケースが頻発しました。
こうした中で、武士政権の拡大を快く思わない朝廷と、幕府の対立が深まります。1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げたのが承久の変です。この戦いは、わずか1ヶ月で幕府軍の勝利に終わり、朝廷の権威は地に落ちました。

武士たちの土地所有に対する強い思いが幕府を作り、朝廷の権威を上回った歴史的な転換点です。
承久の変は、日本の土地所有の歴史において極めて重要な意味を持ちます。幕府は、勝利の結果、上皇方についた貴族や寺社から没収した膨大な荘園や公領を、恩賞として御家人たちに与えました。これを新補地頭と呼びます。新補地頭は、年貢の半分を徴収する権利(半済の先駆けともいえる)や、荘園内の警察権・裁判権など、旧来の地頭よりもはるかに強い権限を持ちました。
新補地頭の設置は、荘園の重層的土地所有構造をさらに複雑化させ、武士が荘園の支配に深く食い込むきっかけとなりました。地頭の権限強化は、最終的には荘園領主の支配を形骸化させ、荘園が武士の知行地へと変貌していく道を拓いたのです。この結果、日本における土地の支配権は、貴族や寺社から武士へと完全に移行することとなり、中世の武家社会の基盤が確立されました。
3. 御恩と奉公:封建的主従関係と土地
鎌倉幕府の支配を支えたのは、将軍と御家人の間の「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」という封建的主従関係でした。これは、将軍が御家人に対して土地の給付や安堵という「御恩」を与え、御家人が将軍に対して忠誠を誓い、軍役などの「奉公」を行うという関係です。
将軍からの本領安堵や新恩給与は、御家人にとって最大の御恩でした。特に、地頭職の給付は、地方の土地から直接的な経済的利益を得ることを可能にし、御家人の生活と武力を支える基盤となりました。これにより、武士たちは安定した土地所有権を獲得し、その土地は家督として代々世襲されるようになります。
これらの制度は、武士の土地所有を固定化させ、彼らの間に強い帰属意識と連帯感を生み出しました。土地は単なる財産ではなく、将軍との絆を示す証であり、御家人の社会的地位を決定づける重要な要素でした。しかし、新たな土地が限られる中で、御家人の子孫が増えるにつれて、土地を分割して相続する分割相続が進み、個々の所領が細分化される問題も生じました。これが、やがて御家人の経済基盤を脆弱化させ、幕府の基盤を揺るがす一因ともなっていきます。
4. 室町時代の土地所有の変容
鎌倉幕府が滅亡し、室町時代が到来すると、土地所有のあり方はさらにダイナミックに変容していきます。その転換点の一つが、後醍醐天皇による建武の新政でした。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒した後、武家政権を否定し、天皇を中心とした律令制への復帰を目指しました。しかし、彼の政策は、武士たちが長年求めてきた土地の安定的な支配というニーズを十分に満たすものではありませんでした。

武士たちの土地に対する執着が後醍醐天皇の建武の新政を崩壊させることになります。
建武の新政では、恩賞地を公平に与えることが困難であったり、旧来の荘園公領制を復活させようとする動きが見られたりするなど、武士、特に地方の武士にとって、新たな土地の獲得や既存の所領の安堵が保証されないという不安が募りました。武士たちは、戦功に応じて具体的な土地の支配権を得ることを期待していたにもかかわらず、その期待が裏切られる形となったのです。結果として、武士たちの間に不満が蓄積し、やがて足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと繋がっていきます。建武の新政の失敗は、武士が土地支配の主役であることを決定づける歴史的な証明とも言えるでしょう。
足利氏による室町幕府の成立は、守護大名の権力拡大を促し、彼らが土地支配の中心となっていきます。南北朝の動乱期には、戦乱による混乱の中で、幕府は戦費調達のために半済令を頻繁に出しました。これは、荘園からの年貢の半分を武士(守護や地頭)に与えることを認める法令です。当初は一時的な措置でしたが、次第に恒久化し、守護が荘園の年貢を直接徴収する「守護半済」が常態化しました。これにより、荘園領主の権利はさらに縮小し、荘園制の解体は加速しました。
また、守護は、荘園領主が自ら管理することが困難になった荘園の管理を請け負う「守護請」も行いました。これは、荘園領主が守護に一定の年貢額を保証する代わりに、荘園の現地管理と年貢徴収を全て任せるというものでした。守護はこれにより、荘園の年貢を独占的に徴収できるようになり、その経済力を増大させました。守護半済や守護請は、荘園の二重支配をさらに推し進め、最終的に荘園を武士の支配下に取り込む大きな要因となりました。
この時代には、農民の側にも変化が見られます。一国平均の地を支配する守護大名に対して、農民たちは団結し、自らの権利を守るための一揆を頻繁に起こすようになりました。土一揆(どいっき)はその代表例で、徳政令(借金の帳消し)などを求めて武装蜂起しました。
また、村落内部では、有力な農民が名主として土地の耕作権や年貢負担を担い、共同で村を運営する惣村が各地に成立しました。惣村は、寄合を開いて自治を行うなど、農民が自立的な土地支配を行う萌芽となりました。名主は、荘園における下司・公文の系譜を引く者も多く、自らの土地を基盤に村落内で強い影響力を持つようになっていきました。
さらに、地方においては、守護大名の支配を脅かす存在として、国人が台頭します。国人とは、地元の有力武士や開発領主の末裔で、守護の支配を拒否したり、あるいは守護に従属しながらも独立した権力を持つ者たちでした。彼らは、自らの城と領地を持ち、地域社会において一定の支配力を確立していました。室町時代の土地所有は、守護大名、一揆・惣村、そして国人といった様々な勢力が複雑に絡み合い、流動的な様相を呈していました。
5. 戦国大名と貫高制
室町幕府の権威が衰退し、応仁の乱以降の戦国時代に入ると、各地で有力な戦国大名が台頭し、下剋上の風潮が広まります。戦国大名たちは、自らの領国を強固に支配するため、旧来の荘園制を完全に解体し、新たな土地制度を構築していきます。
その代表的なものが貫高制です。これは、中世以来の土地の面積ではなく、その土地から得られる米の生産量や、貨幣換算した貫高によって、家臣の知行や軍役負担を定める制度です。この制度により、大名が直接的に土地の生産力を把握し、それを基盤として家臣団を編成することが可能になりました。
戦国大名は、自らの領国内で盛んに検地を行い、土地の生産力を詳細に調査しました。これにより、彼らはこれまで複雑に入り組んでいた荘園の権利関係を整理し、土地の所有権(耕作権)と年貢の負担者を明確にしました。また、領内の農民を直接支配する体制を確立し、中間搾取を排除することで、安定的な税収を確保しようとしました。

戦国大名たちは、重層的な土地制度の中に存在した中間搾取者を排除し、直接統治することで自らの税収確保を図っていきます。
戦国時代末期には、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が登場し、全国統一を目指します。特に秀吉が行った太閤検地は、この貫高制の集大成とも言えるものであり、後の近世の石高制(こくだかせい)へとつながる画期的な土地調査となりました。これにより、全国の土地支配は、個々の戦国大名から、天下人へと一元化される兆しを見せ始め、中世の重層的で流動的な土地所有は、近世の厳格な土地制度へと移行していくことになるのです。
次章では、豊臣秀吉による太閤検地と、それが確立した石高制が、日本の土地所有にどのような恒久的な影響を与えたのか、そして江戸時代の幕藩体制下での土地支配、さらに天皇家の重要な経済基盤であった長講堂領の近世における位置づけについて詳しく見ていきます。
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