※歴史好きの筆者が趣味でまとめた記事であり、ご意見や誤りなどはコメントいただけると幸いです。

武士ってそもそも何なんでしょう?なぜ誕生し、消滅していったのか、歴史を俯瞰的に見ていきます。
本記事では、古代の大和王権における軍事的な萌芽から、荘園制度の下で武士が台頭する黎明期、源氏や平氏といった武家の棟梁が形成される過程、そして鎌倉幕府の成立と武家社会の確立。そして、明治維新による四民平等、士族の反乱、そして西南戦争に至る武士の終焉まで、1500年にも及ぶ歴史を俯瞰的に紐解いていきます。
第1章:武士前夜の日本列島 – 古代豪族と武力の萌芽
武士という存在が歴史の表舞台に登場するのは平安時代中期以降ですが、その源流を辿ると、日本の古代社会における軍事力のあり方や、それを担った人々の姿に行き着きます。武士は突如として現れたわけではなく、長い時間をかけて社会の変化の中で育まれてきた存在なのです。
1.1 大和王権と軍事:軍事を担当した物部氏
古代日本の大和王権は、その勢力を拡大し、国土を統一していく過程で強力な軍事力を必要としました。この軍事を司る上で中心的な役割を担ったのが、物部氏という豪族です。

武士のあらわす「もののふ」という言葉は、物部氏からきているという説もあります
物部氏は天孫降臨の際にニニギノミコトに付き従い、道案内をした饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫であるとされいます。古くから大和王権の祭祀と軍事を司る「連(むらじ)」姓の有力豪族でした。物部氏名前自体が「もののふ(軍事を担当する者)」に由来するとも言われるように、物部氏は古くから軍事と深く結びついていました。その後、物部氏は朝廷の軍事部門を統括する大連などの要職に就き、各地の反乱鎮圧や、朝鮮半島への出兵など、大和王権の軍事行動において中核を担いました。また、武器の生産・管理にも携わり、軍事技術の継承者としての側面も持っていました。
一方で、もう一人の有力豪族である蘇我氏は、渡来人との深い関係を持つ氏族として知られています。彼らは古くから朝鮮半島からの進んだ文化や技術、経済力を取り入れることに積極的で、次第に大和王権内部での発言力を高めていきました。特に、中国や朝鮮半島から伝来した仏教の受容を強く推進し、これまでの神道を中心とした日本の信仰体系に大きな変革をもたらそうとしました。
仏教の受容を巡る蘇我氏と物部氏の対立は、単なる宗教論争に留まらず、それぞれの氏族が持つ伝統的な権益や思想の衝突でもありました。物部氏は伝統的な神祇信仰と軍事を背景に、仏教の排斥を主張しました。これに対し蘇我氏は、新興勢力として大陸の進んだ文明を取り入れることで、政治的な主導権を握ろうとしました。
この対立は、最終的に飛鳥時代に丁未の乱(587年)という武力衝突に発展します。物部守屋が蘇我馬子に討たれたことで、物部氏の軍事貴族としての地位は大きく揺らぎ、蘇我氏が朝廷の最大権力者としての地位を確立します。これにより、大和王権における軍事のあり方にも変化の兆しが見え始め、特定の有力豪族が軍事権を握る時代の終わりが近づいていきました。
1.2 律令国家と防人:公地公民の原則と国民皆兵の夢
7世紀後半から8世紀初頭にかけて、日本は中国の律令制度を模範とした律令国家へと移行していきます。この律令制の下では、軍事もまた中央集権的な国家の統制下に置かれました。当時の軍事制度の根幹をなしたのは徴兵制です。

律令制度では国民皆兵制(徴兵制)で、特定の一族や集団が軍事を担うことはありませんでした。
律令国家の統治の基本原則は、公地公民でした。これは、すべての土地と人民は国家(天皇)の所有に帰するという思想で、大化の改新以来、中央集権体制を確立するための重要な柱とされました。この公地公民の原則に基づいて、国家は人民を公民として直接把握し、班田収授法によって土地を貸し与える代わりに、租(土地税)・庸(労役の代納品)・調(特産品)といった税や、雑徭(地方での労役)、そして軍役(兵役)を課しました。
軍役では、戸籍に基づいて成人男性から兵士が徴発され、全国各地に設置された軍団に配属されました。成人男性は農耕の合間に訓練を受け、地方の治安維持にあたるとともに、必要に応じて中央に動員されました。特に有名なのが、国防の最前線である九州北部の防衛にあたった防人です。彼らは東国を中心に遠隔地から派遣され、辺境の地で厳しい任務に服しました。この制度は、公地公民の思想のもと、国民皆兵の理念に基づき、国家が直接国民から軍事力を徴発する仕組みだったのです。
しかし、この律令軍事制度は、次第にその実効性を失っていきます。兵士たちの経済的負担は重く、自弁で武器や食料を用意する必要があったため、多くの農民が兵役を忌避し、逃亡・浮浪するようになりました。また、私有地の拡大を認める流れの中で、公地公民の原則自体も徐々に崩壊し始めます。加えて、中央から派遣される国司の統制が緩み、地方の治安は悪化の一途を辿ります。農民の逃亡や口分田の荒廃が進む中で、軍団の兵力は減少し、訓練も形骸化していきました。

公地公民制が私有地の拡大にともない崩れ、徴兵制もあわせて壊れていきました。
こうして、律令国家の軍事システムが機能不全に陥る中で、地方では新たな武装勢力が台頭する土壌が形成されていきます。それが、後の武士団の直接的な前身となるのです。中央の軍事力が弱体化し、地方の豪族たちが自衛のために武装する必然性が高まっていく、まさに武士誕生前夜の時代が幕を開けたのでした。
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