瀬戸内海の「海賊」たち:水軍と交易の歴史(第2回)

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案内者
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村上水軍は単なる武装集団ではなく、瀬戸内海の海上交通を支配し、独自の経済圏を構築した複合的な海上勢力でした。

南北朝の動乱が収束し、室町幕府による支配が確立されていく中で、瀬戸内海の海上勢力はさらなる発展を遂げます。この時代、彼らは単なる「海賊」の範疇を超え、高度に組織化された「水軍」として、その存在感を不動のものとしました。その筆頭が、後に「日本最大の海賊」と称されることになる村上水軍です。彼らは、瀬戸内海の海上支配を完成させ、その経済活動は当時の日明貿易や地方経済に深く関わっていくことになります。

2. 室町時代:能島・来島・因島「村上水軍」の隆盛~海上支配の完成と経済活動

2.1 「海賊」から「水軍」へ:室町幕府と瀬戸内海の秩序形成

室町時代は、守護大名が各地で勢力を拡大し、半ば独立した領国支配を確立していく時代でした。瀬戸内海沿岸の守護大名、例えば周防・長門の大内氏、細川氏、山名氏などは、自らの支配圏を拡大するために、海の軍事力、すなわち水軍の存在を不可欠としました。これにより、各地の海上勢力は守護大名の庇護下に入り、あるいは協力関係を結ぶことで、公的な役割を担うようになっていきます。

案内者
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海賊が守護と結びつくことで、水軍として組織化されていきます。

南朝と北朝の対立が激しかった南北朝の動乱期には、瀬戸内海の海上もまた激しい戦いの場となりました。各地の海上勢力は、それぞれの陣営に属して戦功を挙げ、その過程で組織力と戦闘力を高めていきました。動乱が収まると、室町幕府は国内の治安維持と海上交通の安定化に努めます。この時期に制定されたのが「廻船式目」のような海上交通に関する法規です。これは、船舶の通行ルールや積荷の規定などを集めた慣習法で、海上における無秩序な略奪行為を抑制し、正規の交易を促進しようとする試みでした。

しかし、これらの法令は、必ずしも海のすべてを律しきるものではありませんでした。海は広大であり、陸上の権力が及ばない空間が依然として存在しました。その隙間を縫うように、あるいは権力と結びつきながら、海上勢力は独自の秩序と経済圏を築いていったのです。

2.2 村上水軍の登場と三家分立の真実:瀬戸内海最大の海上ネットワーク

室町時代中期には、瀬戸内海において最も強大な海上勢力として村上水軍がその名を轟かせます。彼らは「村上」という姓を共有していましたが、血縁関係は比較的希薄で、能島、来島、因島の三つの島を本拠とする「村上三家」として、それぞれが独自の特色を持つ独立した勢力でした。

案内者
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村上水軍の三家にはそれぞれ特徴があるよ

  • 能島村上氏: 芸予諸島の能島を本拠とし、その戦闘力は三家の中でも群を抜いていました。彼らは特定の守護大名に深く依存せず、独立性の高い海上勢力として活動しました。瀬戸内海の要衝を抑え、航行する船舶から通行料を徴収する一方で、時には敵対勢力の船舶を襲うなど、まさに「海賊」的な側面も強く持っていました。しかし、その根底には、瀬戸内海の海上交通を支配し、安全を「保障」するという自負がありました。彼らは高度な航海術と戦闘技術を持ち、狭い海峡での奇襲戦や、潮の流れを読み切った戦術に長けていました。
  • 来島村上氏: 伊予国の来島を本拠とし、代々河野氏(伊予の守護大名)に仕えました。三家の中では最も早くから陸の権力との結びつきを強め、外交手腕に優れていました。彼らは、瀬戸内海西部の警固役を担い、河野氏の海上勢力としてその軍事活動を支えました。後に豊臣秀吉の「海賊禁止令」に際しても、真っ先に大名に取り立てられ、近世大名へと転身していくことになります。
  • 因島村上氏: 備後国の因島を拠点とし、吉備国の有力者である水野氏と関係が深く、また備後国の守護である山名氏とも結びつきを持っていました。彼らは、中・東瀬戸内海の要衝に位置し、商業活動にも積極的に関与しました。特に日明貿易が活発になるにつれて、交易ルートの確保と保護を担い、経済的な基盤を確立していきました。

村上三家は、それぞれが独自の活動領域と主従関係を持ちながらも、必要に応じて連携・協力することもありました。彼らは、互いの勢力圏を侵さないよう暗黙の了解を持ちつつ、瀬戸内海全体の海上交通を網羅する巨大なネットワークを形成していたのです。彼らの生活は、海と共にありました。彼らは船上で暮らし、航海術、漁業、そして海上戦闘の技術を代々受け継ぎました。彼らの信仰は、航海の安全を司る速玉大社(熊野三山)や龍神信仰など、海にまつわるものが中心でした。海を生活の場とし、海を知り尽くした彼らだからこそ、瀬戸内海の支配者となれたのです。

2.3 彼らの経済基盤:通行料(帆別銭・過所船)と海外交易の光と影

村上水軍が強大な勢力たりえたのは、その経済基盤が極めて巧妙に構築されていたからです。彼らは、単なる略奪者ではありませんでした。むしろ、瀬戸内海の海上交通を管理し、その安全を「保障」することで、合法的な(あるいは半合法的な)収入を得ていました。

案内者
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船舶の通行料を取ることで、半合法的に安定的な収入源を確保していました。

その主要な収入源の一つが、船舶から徴収する通行料です。彼らは、自らの支配海域を通行する船に対して、「帆別銭」や「過所船料」といった名目で金銭や物資を徴収しました。 帆別銭とは、船の帆の大きさや積載量に応じて課せられた税のようなもので、船の運行に必要な許可料の意味合いを持っていました。これを支払った船は、水軍の支配する海域を安全に航行できるという「保証」を得たことになります。 また、過所船とは、水軍から発行された通行手形のようなものを携帯する船のことで、これにより特定のルートでの安全が約束されました。このシステムは、現代の高速道路の通行料や、警備会社との契約に近いものと考えることができます。彼らは「警固衆」として、海上の治安を維持し、他の海賊や密漁者から船を守る役割も果たしていたのです。この「警固」と、正規の手続きを踏まない船への「乱取り」は、まさに表裏一体の関係にありました。支払いを拒否したり、許可なく通行しようとしたりする船に対しては、武力を行使して略奪を行うことで、自らの支配権と経済基盤を確立していきました。

さらに、村上水軍は海外交易にも深く関与していました。室町時代は、日明貿易が盛んになり、中国大陸や朝鮮半島との交易が活発になった時期です。瀬戸内海は、日明貿易の積出港である堺や博多と畿内を結ぶ重要な海上ルートであり、村上水軍はこれらの交易船の護衛や、時には自ら貿易に従事することもありました。彼らは、中国産の陶磁器や絹織物、香辛料などを日本にもたらし、日本の刀剣や硫黄、銅などを輸出し、莫大な利益を得ていました。

この時期、東アジアの海上で問題となったのが「倭寇」です。倭寇は、前期倭寇と後期倭寇に大別されますが、室町時代の村上水軍と関係が深いのは主に前期倭寇です。前期倭寇は、対馬や壱岐、松浦など九州北部の海民が中心となり、朝鮮半島や中国沿岸部で略奪行為を行った集団です。しかし、後期倭寇になると、中国人が主体となり、密貿易と結びついた大規模な活動を展開します。村上水軍が直接的に倭寇として活動したという明確な証拠は少ないものの、彼らが持つ強力な海上戦力や交易ネットワークは、倭寇と結びつきやすい土壌を持っていました。実際、彼らは日明貿易の裏で密貿易に関与したり、時には倭寇の活動を黙認・支援したりすることで、利益を得ていた可能性も指摘されています。

このように、村上水軍は単なる武装集団ではなく、瀬戸内海の海上交通を支配し、独自の経済圏を構築した複合的な海上勢力でした。彼らの活動は、略奪と保護、軍事と交易という二つの側面を併せ持ち、室町時代の瀬戸内海の経済と秩序の重要な一翼を担っていたのです。彼らが培った海上技術とネットワークは、やがて来る戦国時代の激動の中で、その真価を発揮することになります。

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